第1話 ありがとう……なんて

一幕

「ねぇ! 昨日の『愛してマスカット!』ってドラマ観た?」


 観た観た。女子ってあんな恋愛求めてんの? 壁ドンとか顎クイとか。カキカキ。


「やべ! 家に財布忘れてきちまった。誰か昼飯代かしてくれ~」


 嫌だね、忘れるお前が悪い。まぁ、利子つけていいなら貸してあげるよ。二百パーセントもらうけれど。カキカキ。


「ほんっと男って最低! なにあのクズ! さっさと別れればよかった!」


 そのクズ男選んだのはお前だろ? この前までべったべたくっついて歩いていたじゃないか。なんなのその手のひら返し。女って怖いね。カキカキ。


「おいコドク! さっきからぶつぶつうるせえんだよ、ボケ!」

「え、あ……ごめん」

「誰もお前に話しかけてねえよ! 会話入ってくんな!」


 僕だってお前らなんかと話したくもないわ。カキカ――


「聞こえてんよ!」


 ――ボールペンが飛んでくる。僕の机にカン、と当たって消しカスだらけの床に転がり落ちた。ビクついた僕の背中に嘲笑の声も飛び交った。

 ペンを投げたクラスメイトの女子が近寄り、足元に転がる私物を拾い上げる。ていうか女子なのかよその口調で。


「拾うくらいしろ、ボケ!」


 汚い言葉を言い捨てて自分のグループへと戻っていくクラスメイトの背を横目で流し、頬杖をついてため息をこぼす。

 悪いのは僕なのか。二秒考えて否定した。投げたのはあの馬鹿だろうに、それを拾えとはどう考えたって立場がおかしい。そのうえボケとはなんたる暴言だろうか。言いたい放題にもほどがある。

 そもそもこのベターな展開はどういうことか。青春ドラマや映画の観すぎではないのか。主人公が嫌われ者、捻くれ者なんて使い古された錆びた歯車だ。劣化しすぎて話の展開もクリアじゃない。いやいや、僕は何に怒っているんだろう。

 苛立ちに顔が熱くなる。机に広げた授業用ノートにシャープペンの先を何度も叩く。綴った独り言が点の群によって浸食されていく。けれどもどうにか平常心を保つべく、窓外を眺めて心を落ち着かせた。

 ここで怒って発狂するのは誰だってできる。殴り合いの喧嘩だって求められればやってやろう。しかしそれでは奴らとレベルが変わらなくなる。ボールペンを人様に投げつける猿を、嫌厭できる立場でなくなるのは御免こうむりたい。

 僕は猿ではない。群れてる奴らとは違うのだ。クラスで浮こうが嫌われようが、真っ当な人間としての軸はぶれさせない。でなければ、最低な人間に陥ることになるのだから。

 他人を傷つける人間には、死んでもなるもんか。

 三階の窓から見上げた先は僕の心中に反してよく晴れている。青い空には雲ひとつ見えず、春風が中庭の木々を揺らしている。拳ふたつ分ほど窓を開けるとヒヤリと心地よい風が顔を撫でた。怒りが次第に和らいでいくのが自分でも分かった。

 ふと中庭に伸びた外廊下を眺めると、担任教師の姿があった。時計をチラリと眺めればもうすぐホームルームの時間である。そろそろ本鈴が鳴るころだ。

 担任の横には小柄な生徒がついて歩いていた。見ない顔だが青いネクタイが同学年であることを教えてくれる。他クラスの生徒だろうが、チャイム前だというのに呑気なもんだと思った。

 二人の姿が校舎内に消え、またしばらく外を眺めていると本鈴が鳴りだした。早朝の雑談もここまで、猿共はそろって名残惜しそうに各々の席に帰っていく。と思えば皆そろったように机の陰で携帯電話を操作しだした。持ち込み禁止だろうに、本当につくづく馬鹿な奴らだと息を落とした。

 間もなく担任が教室の扉をあけた。ボブカットの黒髪を揺らし、いつもは厳しい表情ばかりを浮かべている珠子たまこ先生は今日はなんだかご機嫌である。

 教卓に日誌を置いたタイミングで、さっそく口を開く。


「おはよう! ホームルームを始める前に、今日はみんなに紹介したい人がいるの。さ、入って」


 廊下に視線を向ける担任の後を追い、生徒も皆同じ方向を見つめた。このときばかりは僕も、頬杖をついたまま目を向ける。ま、先の展開は誰だって分かるだろうけど。

 入室してきたその子は小柄な女の子だった。眉毛の上で切り揃えられた前髪と、短い両サイドの束ね髪。大きく丸い目はビー玉のように輝いて、この世の穢れも知らないよう。鼻と口、顔の輪郭にいたるまでが小さく首から下は華奢な容姿。

 つまりは可愛いらしさに溢れた姿だった。

 一見して中学生でもおかしくはないその少女は、珠子先生の隣に止まるとくるりと僕らに向かって気を付けをした。右向け右、みたいな動きは不自然なほど規則正しい動作だった。

 同タイミングで、珠子先生が黒板に字を書く。縦にデカデカと綴られたのは、もちろん名前で、名主の少女は深く一礼してから笑みに包まれたサクランボのような唇を開いた。


「皆さん初めまして、目移めうつり佳舞かまえと申します。父の転勤でこちらに引っ越してきたばかりで、あまり此処ら辺りの地理には詳しくないもので……実は、今朝は早めに自宅を出たはずなのですが、遅刻しそうになっちゃいました。危なかったです」


 言わずもがな、それは転校生からの紹介の挨拶だった。

 小さな笑いが教室を包んだ。空気が和らいだのが肌に感じる。少しは緊張しているだろうが、目移さんの小ボケはいい感じに場の空気を掴んだようである。その様子を見て、僕はひとり、ため息を落とす。


「この町はいいところですね。街からもそう遠くなく、けれど自然は保たれ空気は美味しいです。歩くだけでも心地よい風が吹いて、あ、そういえばこちらに来るとき、近くのパン屋さんから甘く良い匂いが漂ってきました!」


 快調なご挨拶。クラスメイトは彼女の言葉に頬をほころばせる。初対面の壁は着実に取り除かれ、この調子ならば目移さんがこの教室に馴染むのにそう時間はかからないだろうと思える。

 そういう類の人間は多い。人から好かれる言動を自然にこなせるのか、それとも計画的に発言しているのかは知る由もないのだけれど、どちらにしろそれは僕とは真逆のタイプの人間だ。

 そういう奴の周りには人が集まる。おめでとう、きみは心配しなくとも我がクラスの愉快な仲間たちとして大きな一歩を踏み出した。ほんと、バカバカしいよ。

 目移さんの自己紹介はまだ終わらない。


「皆さんとは仲良くしたいと思っています。私、もともと友達をつくるのが得意じゃなくて、ちょっと距離置かれちゃうこととかもあったのですけど」


 おや?

 話が変な方向へ逸れている気がした。

 僕だけでなくクラスの連中も察したようで、唐突に顔色を悪くする。


「なんていうか、他人を困らせちゃうみたいなんですよ、私。自分では悪気はないんですけど、態度とかが癇に障るみたいで、よく無視とかされてました。あ、でもその人のこと恨んだりはしてませんよ。悪いのは私なんだろうし、きっとウマが合わなかっただけなんでしょうね」


 いや、えへへと頭を掻いている場合か目移さん。

 それは公の場で言うことではないだろうに。怪訝な顔つきに変わっていく生徒たちに交じって僕も頬杖をそのままに首をかしげて見せる。自己紹介ってこんなに重い話を言うものだったっけ。


「ですから、この学校ではお友達をたくさんつくりたいと思っています! みなさん、よろしくお願いしますね!」


 ニコっと爽やかスマイルで一礼し、目移佳舞の自己紹介は終了となった。もはやその笑顔の裏には底知れぬ闇が見え隠れしていた。

 まばらな拍手からも分かる通り、順調だったはずの彼女の印象はものの数秒でガラリと変わってしまっている。皆それぞれに口許を引きつらせ、中には隣同士でヒソヒソと話している者もいた。

 快調な挨拶は、不信感へすっかり変わり果てていた。


「えーと……皆、仲よくしてあげてね」


 さすがの珠子先生も表情が複雑に歪んでいた。笑みを保つ口とシワの寄った眉間では彼女の心境が二つにも三つにも違って感じ取れた。いきなりのカミングアウトに先生たる立場でもどうにもフォローが難しいようである。

 無理もない。彼女は初対面にしてはずいぶん触れにくい傷口をさらけ出してきた。見るだけでも嫌になる、過去の傷だ。それとは無関係でありたいと、きっと誰もが思ったに違いなかった。


「じゃあ目移さんは、そこの空席を使って。新しい椅子と机はホームルーム後に持ってくるわね」


 そうして指さされたのは僕の隣であった。おう、シット、よりにもよってここですか。


「よし、じゃあホームルーム始めるわよ」


 珠子先生の声を背にこちらにテチテチ歩いてくる目移さん。ぱっつん前髪を揺らし、行き過ぎるクラスメイト達に一礼一礼、丁寧に頭を下げていく。その様子は律儀を通り越してなんとなくあざとく思う。

 やられて嫌ではないにしても、いちいち礼を返していてはいつまでたっても自分の席にはたどり着けないだろうに。

 わずらわしさが込みあがると自然に嫌悪感すら浮き上がってきた。僕はそういう形の上でのあいさつを好まない。上辺だけの礼儀に応えるだけ気力の無駄だと思ってしまう。

 窓外を眺めて彼女から目をそらす。席に腰つけるまで気づかないフリを通すつもりだった。

 しかし、頬杖をついた肘が机上のペンを外野へ押し出してしまった。

 カラン、と床に音を立てて転がるシャープペン。それは数十センチの小さな旅路を経て、目移さんのつま先にコツンと当たって停止した。

 僕の中で時間が止まる。筆箱に直さなかった自分を恨む。こういう間の悪さは主人公たる性だろうか。あぁ、いや、何でもないけれど。

 姿勢をそのまま、ゆっくりと視線を上げれば足元を見下げる彼女の姿。ジーっと足元のペンを眺め、不意にこちらを見てきたので即座に首を下げる。机に顔を近づけたまま上目遣いで彼女の行動を観察すると、目移さんがおもむろにその場に膝を折ってしゃがみこんだ。


「はい、これ。落としたよ」


 細い指がペンとともに僕の鼻先にのばされ、はっとなって顔を上げれば満面な笑みの目移さんの表情があった。両サイドの結い髪がピョンピョン跳ねそうなほど、にこやかな笑みを浮かべていた。

 よく見ると可愛いもんだな。一瞬でもそう思った自分をぶん殴ってやりたい。


「あ、あぁ」


 餌を捕るカメレオンのように素早くペンを受け取って、すぐにそっぽを向く。窓外の青空ばかりを見上げ、頑なに彼女の視線から逃げ続けた。

 椅子が引かれ、席に座る音を耳にして気づかれないようため息を落とす。こんなにすぐファーストコンタクトがあろうとは思いもしなかったから、今でも心臓はバクバクとうるさくなっていた。

 

「今週末にある部活動紹介のことだが、時間は昼休み後、場所は体育館で……」


 珠子先生の話し声など耳には遠く、しかし転校生の鼻歌ばかりは延々と聴こえてきていた。

 え、ドンキーコング3のマップBGMって、なにそのチョイス。



 

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