第213話老竜はハクを許しますか?
今日も空を、月を眺める。もう何度ここでこの空を眺めているのだろう。
あれから何年経っただろう。もうあの時の気持ちが思い出せなくなっていた。
嬉しさも、楽しさも、悔しさも、悲しさも、怒りも。
あまりに長い年月を経て、あれだけ自分を作っていた感情の奔流が思い出せなくなった。
思い出せなくなっても、楽しかった思い出だけは消えなかった。楽しかったという気持ちと、悲しかったという気持ちだけは、まだ残っていた。
「老」
竜の一体が、私を呼ぶ。要件は分かっている。
先ほどここに、人間が一人やってきた。その事だろう。私はその竜に頷きで返す。
竜はそのまま下がり、人間が一人やってくる。イナイだ。
『よう、元気か?』
「ああ、イナイはどうだ?」
『ま、そこそこだ』
おそらくハクの事だろう。この人間は優しい心の持ち主だ。
恐らくハクが我々と戦って、自分たちの力になった事を無視できなかったのだ。
『まどろっこしいのは抜きだ。ハクの事なんだが、話は聞いてる。あいつはあたしたちを助けに来ようとしてくれただけなんだ。許してやってくんねえかな』
「許すか。許す必要は無い」
そう、ハクを許すなどと言う意味は無い。イナイには申し訳ないが、この申し出に意味は無い。
『それは、どうあっても許すことはできないって事か?』
「ああいや、違うよ。言い方が悪かったの」
結論を先に言ってしまったせいで間違って意思が伝わってしまった。
「我々の誰も、ハクが帰ってくることを拒む気は無い。そもそも、ハクが恐怖を乗り越え、信念を押し通したことを良しとしても、それを咎める者は居ない」
『そうなのか?ハクはここには帰ってこられないと思ってるぞ?』
「あの子はまだ若い。故にそういった短絡的な思考になったのだろう。我々のように長い時を生きれば、それがどれだけの事なのかを理解できる」
『ハクにそれを伝えても?』
「問題ない」
おもわず少し笑い、伝える。
そうか、帰ってこれないと思っていたか。
「個人的にはあの子には感謝している。とても懐かしい事を、とても大事だったことを、失くしたくなかった物を、そのために始めた事を、思い出した」
目を細め、また月を眺める。胸に抱けた想いを噛みしめながら。
この想いを無くしたくなかった。だが年月が流れるにつれて、記憶も、想いも、段々と薄れていった。
それが怖くて、辛くて、どうにか押しとどめようと、楽しかった想いだけでも消さないようにと、人にそれを求めた。
だがそれでもいつからか、段々と想いは薄れていった。
どうしても、それは止められなかった。
『感謝?ハクが暴れた事にか?』
「ふふ、そうだな。それも有る。そうまでして押し通したかった想い。そしてその想いから来る叫び。共に、とうに失くした想い。思い出させてもらった」
ハクが去るときに叫んだ言葉。それが胸に突き刺さった。
お前は何を忘れているのかと。お前は何を忘れたくなかったのかと。
お前はどんな想いで友を見つめていたのかと。
「何よりも悔しかったのは友の苦境に気がつくことも出来無かった事。
何よりも怒りを覚えたのはその場にはせ参じる事も出来なかった己自身」
『なんだそれは?』
私の呟きに、イナイが首を傾げる。
「ここを去るときに、ハクが叫んだ言葉だよ。ハクに、イナイにも教えた昔話の事だよ」
『ああ、あんたの友の』
「ああ。そう、まさしくそうだった。悔しかったのは奴の死も、その危険も何もかも気が付いた時には遅かったこと。
そんな奴に、生きている間に何もできなった事。助けることも、話すことも、出来なかった
奴が来る日に恋い焦がれ、何もしなかった自分自身に怒りを覚えた。ついて行けばよかったと。奴と共に有ればよかったと。
オレはそんな事を。そんな大事な事を、そんな無くしたくなかった想いを忘れていたのかと」
思わず、目元が熱くなった。余りに懐かしくて、あまりに心が苦しくて、若かりし頃のあの思いが胸を焦がすような気がして。
涙が流れた気がした。もう顔も思い出せなくなってしまった、奴を思い出して。
「ああそうだ、オレはそんな事も忘れていた。忘れたくなかったのに、忘れたくなかった筈なのに。
ふふ、年月とは怖いな。わしはどれだけの事を忘れてしまったのだろうな。ハクのおかげで、この大事な想いを思い出せた」
『・・・老竜、あんたまさか、あの話』
「ふふ、ただの年寄りの長話だよ。遠い遠い昔に名を貰ったような気がする、年老いた竜の、ただの昔話だよ」
大事だったはずの名も、誰にも呼ばれず、老と呼ばれるようになり、いつからか思い出せなくなった。
そんな事がいくつもある筈だ。あの時の熱い思いだけは、何とか覚えていたのに。
いや、もう、それしか覚えていられていない、というほうが正しいのかもしれない。
「ハクに伝えてくれるか?我らはお前の帰りを拒む気は無いと」
『分かった。伝えておく。さっきの話は、聞かなかったことにする』
「ふふ、そうだな。そうしておくれ。そしてすまなかったな」
『すまなかった?』
「ああ、あの亜竜達の事を、伝えておくべきだった。今ならそう思えるよ」
『・・・いや、あれは確認をしなかったこちらも悪い。元々人間達が自分で背負うべきことだったしな』
この娘は優しく、強い娘だな。
この娘の本質は本来そこまで強い者ではないだろう。だがそれでも強くある、背を伸ばして立っている。
ああ、そうだ。人とは強く有れるものなのだ。自分を鼓舞して、今の限界を超えられる者なのだ。
それを教えてきたはずなのに、忘れていた。本当の意味を、忘れていた。
「イナイ。お主にも、感謝を」
『え?』
「ふふ、いきなり言われても困ろうな。だが、感謝を。この老骨に熱い想いを取り戻してくれたハクとイナイに、心の底からの感謝を示したい」
『・・・そうか』
わしの言葉に、ふっと笑うイナイ。
懐かしい。とても懐かしい気分だ。ああそうだ、楽しかったなぁ。
また空を見上げ、月を見上げ、あの時と変わらない空を眺めることで、あの時の自分を思い出そうとする。
ああ、楽しかったよなぁ。オレは楽しかった。本当に、本当に楽しい時間だった。
お前だってそうだったよな・・・。
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