笛吹く、はにかむ。心配する。



翌日。


天気は晴れ。教室は平常運転。総て世は事も無し――少なくとも日中は。


ショウとカケルと言う、漢字で書けば両方『翔』の小学生男児二連チャンのレッスンを別室で終えた私が居間へ戻ると、三人の児童が黒江さんの監督の下、巨大なオタマジャクシのような四分音符を塗りたくっている真っ最中だった。


それにしても、なんで最近の親は皆揃って男の子に空とか海関係の名前を付けたがるんだろうね。名簿をチラ見しているだけでも、ブルーになりそう。さて、次の流行りは『空海』かな?


私は居間を突っ切って、一服しに庭へ向かいながら言った。


「さあ、もうそろそろ帰りの支度をした方がいいぜ――さもないと、化物みたいにデカいオッサンと玄関先で出くわして、ションベンチビる羽目になる」


教壇代わりの電子ピアノの向こうで、まるで寺子屋の先生といった出で立ちの黒江さんが、時計をちらりと見た。


「あ、もうそんな時間ですか――室井さんがいらっしゃるんでしたよね」


言うこと全てが疑問形という、知りたがり根性の塊のような女の子が、キンキンと耳障りな声を上げる。


「ムロイってダレー?」


「だから言ってんだろ、お子様には刺激の強すぎる、規格外のビッグフットだって――ん?」


私は、木の鬱蒼と生い茂る向こうにじっと眼を凝らしながら、言葉を詰まらせた。


「あー……こりゃ手遅れかもしらんな」


松と夏ミカンの梢から、チラリチラリと覗かせる角刈り。挙動不審に、家の前を行ったり来たりしている。


「室井さん、もうお見えになったんですか?」


と、黒江さん。


私は神妙な顔をして頷いた。


あの男――室井緑は、乱雑その物な顔形の割に、怖ろしく几帳面なのだ。時間厳守は当たり前、それどころか五分や十分前――いや、下手したら二十分も前の行動を心がけている。ただ先方を煩わせてはいけないという配慮故か、定時までは人目に付かないようにひっそりと時間を潰そうとする。しかし哀しいかな、あの図体で身を隠すというのは、ミサイル発射装置を悟られないように造るのと等しい難問で、概ね失敗に終わっていた。それどころか、ああやって人の家の前をウロウロと――おまわり呼んでやろうか? あ、アイツがおまわりだった。


それにしても、今日はいつもにも増して挙動不審な――まあ、理由は大体想像つくが。


庭から回り込み、門を開いた私は、夏ミカンの木に頭が擦れている小山のような後ろ姿に向かって、ぶっきらぼうに言った。


「その木、結構ケムシ沸くぜ――うわ、ビックリしたぁ」


『ケムシ』という単語に反応してか、急に踵を返し鬼瓦のような顔面を迫らせる大男に、私は思わず大声を上げた。まさか、ケムシまで苦手とは――どんだけ顔に似合わないことをやれば気が済むのやら。


「ど、ど、どうしたんですか、先生」


「どうしたもこうしたも、そりゃこっちの台詞だよ。二十分も前からノシノシノシノシしやがって――ってかお前、なんちゅう格好してるんだ?」


普段は制服か、くたびれたポロシャツにジャージの下という出で立ちの男が、あろうことか桜色のブレザーに、薄水色のストライプのシャツというおめかしをしていた。ただ、洒落者というよりは売れない喜劇役者に見えるのは、この男の悲しい定めか。いつもはタワシかトイレ洗浄用ブラシといった風の剛毛も、ジェルで控えめにセットされている。背中からチラリと見えるのはクラリネットケースで、本来は結構目立つサイズなのだが、この男に掛かると鍋蓋の持ち手のように小さく見える。


「お、おかしいッスか?」


「いや、別に? 気合が入っていて結構。尤も、それが音楽に対してだけの純粋なものかは、不明だがね――」


私がそう言って意地悪い視線を送ると、室井の良く日に焼けた顔が煉瓦色に変わる。


あーかわいい、あー面白い。


「まあともかく上がれよ。客寄せとしては失格だから」


チビ達が脱ぎ散らかした靴の群れの中に、ボートのような靴を揃える室井。


廊下の床板を軋ませ、鴨居に頭をぶつけないように身を低くして居間に入った室井を出迎えたのは、チビ共の絶叫だった。


「ギャーッ!」


ギャーッ。


いくらなんでもギャーッは可哀そうだろう、と思いつつも、心の中で便乗する私。


見ろよ、室井、ちょっと涙目じゃないか。ヒドいなあ、もう。


そんな中、一人大騒ぎに混ざらない女の子がいた。子リスのような表情でじっと室井を見つめていると、やがて「あっ」と声を漏らした。


交番の大きなおまわりさんだ!」


「ん、知り合いか? それとも、大船観音みたいに一方的なランドマークとしての認識か?」


子リス女子はプルプルと頭を振って、


「前ね、お使いに行ったときにお財布落しちゃって、この大きなおまわりさんが一緒に探してくれたの。ママが見ちゃダメっていうお店のおねえさんが拾ってくれてたのを、見つけてくれたの」


ほう? 絵本の『泣いた赤鬼』のように、ファーストインプレッションさえ乗り切れば子供受けのする、室井らしい心温まるエピソードだった。


それにしても、なんだ、『見ちゃダメ』なお店って。そんなアダルティーな店、この商店街にあったっけ?


そう考えあぐねていると、室井が照れ臭そうに耳打ちした。


「永久さんですよ」


私は思わず噴き出した。


あーそういや、この子リス少女の父親も、時々永久さんのところで見るっけ。亭主がこっそり羽を伸ばしに来る憩いの場の正体を、背広のマッチか何かで探り当てた女房が、邪智に満ちた偏見を愛娘に吹き込んだのだろう。永久さん、年齢不詳だけど綺麗だものな、女の嫉妬心に火を点けるには充分過ぎるほど。


「まあいいや、もう出くわしちまったんだからしょうがない。チビ助共には課題を続けて貰うとして――室井、お前は楽器を出せ。ここでやろう――曲は前と同じ、モーツァルトのクラリネット協奏曲の第一楽章でいいな?」


室井は頷いた。


さあ、室井が持つと熊撃ちの猟銃に見えてくる楽器を準備している間に、二三の説明をしておこう。


『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』や『トルコ行進曲』、『魔笛』等、代表作の列挙に暇が無いウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、彼以上に『天才』の呼称が相応しい人物はいないと断言できるほどの大作曲家である。その三十五年という短すぎる生涯で、彼が後世にも残る圧倒的名声を博した所以――それは、その手がけたジャンルの幅広さにあると思う。


実は、クラシックの音楽界というのは奇妙なもので、『交響曲』と『オペラ』はどこか相容れぬところがある。純粋に楽器の持つ可能性を追求し、全ての詩的表現や抒情性を五線譜に叩き込む『絶対音楽』――その最も大規模なものが『交響曲』。対して、音楽は五感を構成する一要素に過ぎぬと考え、視覚や文学とのコラボレーションを介し、より総合的な芸術を創造しようとする『標題音楽』――『オペラ』は、その究極の形といえる。


そんな訳だから、『オペラ作曲家』と『交響曲の作曲家』の二足の草鞋を履くことは大変難しく、それはイデオロギーの違いのみに留まらず、大勢の偉大な作曲家がどちらかの陣営に隷属することを強いられていた。


例えば、小学生ですら馴染みの深いルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェンは、『運命』や『第九』を始め、絶対音楽の新約聖書と呼ぶに相応しき傑作群を産み出した。そんな彼もオペラに関しては本ッ当に才が無く、唯一の『フィデリオ』も纏まりは無いわややっこし過ぎるわで、『名作』というよりは『迷作』に近い。


メンデルスゾーン、シューベルト、ブラームス等は明らかにこの系統である。シューベルトは歌曲の大家だが、歌曲と歌劇は根本の思想で異なるものであり、彼の声楽曲は声付きの絶対音楽であるように私は思う。


一方、ロッシーニやウェーバー、ワーグナー等の名立たるオペラ作曲家たちは勿論、リストも『表象音楽』側の人間である。


まあ物凄く乱暴にいうと、『交響曲何番』とか『ホ長調ピアノソナタ』とか『間奏曲』みたいな、形式ありきのタイトルを付けたがるのは概ね『絶対音楽』寄りで、『交響曲』系である。対して『表象音楽』の方は、『イゾルデ愛の死』とか『マリオネットの葬送行進曲』とか『波を渡るパオラの聖フランシスコ』とか、ゴテゴテしい命名で形式的にもより自由度が高い。


しかし、モーツァルトはその分類に当て嵌まらないのだ。


いや、『当て嵌まらない』のではない、『両方に当て嵌まる』。


二つをゴチャゴチャに混ぜ合わしてしまったタイプはマーラー等がいるのだが(交響曲のクセに四六時中合唱団立たせておくような)、きちんと『交響曲』は『絶対音楽』、『オペラ』は『表象音楽』の線引きが出来ていて、且つ双方において傑作を書ける人間は、彼以降百年以上に渡っていなかった。


そんなモーツァルトにも弱点はあって――いや、持ち味の一つとも言うべきなのだろうが――交響曲や協奏曲の密度に乏しく、軽やか過ぎる感が否めない。単純だからこそ長く愛される――そんな国民的アニメのような性質が、所謂『モーツァルト的』の特徴なのだが――


『クラリネット協奏曲』――コイツだけは例外なのである。


モーツァルト最晩年、病とフリーメイソン思想に縁取られた頃に書かれたこの曲は、独奏とオーケストラの関係が単純な主従関係に留まっておらず、音域による音質の差を対照的に魅せる技巧が凝らされており、他の協奏曲には無い耽美で深遠な要素が見て取れる。ただ、自筆譜は消失していること、現行の楽譜は何者かが編曲したものであること、音域がクラリネットにしては低過ぎる箇所があること等から、厳密な意味でのモーツァルトの曲ではないという主張もある。


まあ、なにが言いたいのかって言うと――


コイツはクラリネット界ではかなりスタンダードな曲で、クラリネット奏者は協奏曲の登竜門としてこの曲を学び、死ぬまで悩まされ続けるのである。私のフランス時代の友達も、この曲との腐れ縁が十五年近くも続いていた。


ソイツがどっかのオケのオーディションを受けるからって、何度か予行演習に付き合ったこともあり、一応私のレパートリーに入っているのだ。まあ編曲物の伴奏だから、音は容赦なくすっ飛ばすけれど。


そうこうしている内に、室井はスタンバイ。


私も肩甲骨にへばりついた筋肉を引きはがすように腕を回しながら、グランドピアノの前に向かう。


「ソロの入る四小節前からでいいな?」


強張った面持ちで頷く室井。


私は軽く眼で合図すると、鍵盤を押し始めた。


明朗な旋律を疾走感と共に奏でる。第一楽章の速度指定はアレグロ――『速く』である。が、その柔らかな曲調故か、あの私の大嫌いな単語――世間一般で言う『アンダンティーノ』の速さで弾かれる事が多い。横薙ぎの解釈は、ロマン主義的抒情性よりも、あっさりさを追及していた。


二人の息継ぎが合い、室井が主旋律を奏で始める。最初は固くぎこちない様子だったが、流れに身を任せて徐々に演奏にも躍動感が産まれる。十分弱の決して短からぬ曲を、スムーズなルーチン化した表現で乗り切る。ただ、それでも慣れない私達には結構な重労働で、最後の和音を鳴り終えたときには、二人の額からは汗が滝のように流れていた。


静寂の中、ようやく一息を吐き、立ち上がる私。室井も同時にクラリネットを下ろし、やがて拍手が鳴る。最初は雨だれのようだったものが、少しずつ勢いを増し、チビ達に至ってはシンバルを持ったサルのぬいぐるみのような挙動だった。


「先生、スゴーい! おまわりさんもスゴーい!」


黄色い声を軽く受け流し、いつの間にか黒江さんが用意していた、氷の浮かんだ麦茶を手に取る。


そして、これまたいつの間にか定位置に戻って淑やかに座っている黒江さんに、反射的に問う。


「どうだった」


黒江さんは指を口に当て、考え考え言った。


「良かったと思いますよ。ただ、トレモロが随分苦しそうでしたけれど――それに、もっとゆっくりなテンポの曲だと思ってましたから、意外でしたわ」


私は渇いた喉に麦茶を流し込み、大きなオッサン臭い溜息を吐いてから言った。


「ああ、それには二つの理由がある。一つ、管楽器ってのは、オーボエを除いて、息がどうしても足りなくなる楽器なんだ。情緒たっぷりにねっとりゆっくり吹くには、相応の肺活量と、冗長にならないスピーディー且つシステマティックな息継ぎが求められる。こういう伴奏業の時は、とにかくどんな相手でも合わせ易い弾き方をするように心がけているんだ――で、二つ目は、ネチョネチョした古典派が嫌いな俺の趣味だ」


私の暴論に室井も苦笑して、


「でも、お陰さまで吹きやすかったッスよ。息継ぎに合わせてきちんと待ってくれますし」


「当たり前だ。もし酸欠で倒れられでもしたら、このボロ屋の底が抜ける」


再びバツの悪そうな表情をしていた室井だったが、突然キッと真剣な面持ちになって、一語一語ハッキリと発して問い掛けた。


「で――先生はどう思われましたか? 俺の演奏」


「ん? そうだな――客観的に見て、悪くはない――と言うか、むしろ良い。専門教育も受けてなく、ブランクも長いアマチュアとは思えないほど基礎がしっかりとした演奏だった。勿論、呼吸法や音程の取り方に問題はあるし、俺は管楽器の専門じゃないからそこらへんは何とも言えんが、少なくとも構築や要素は及第点だ」


「あ、ありがとうございます!」


「ただ!」


怒られるのかと思いきや、褒められてビックリした顔を輝かせる室井に向かって、釘を刺す。


面白味というか、快活さに欠ける演奏だったな。俺が必死にケツを叩いていたから良かったものの、考え過ぎてドン臭くなりやすい――脂っこい。硬いのは多分、そのハズレのリードの所為もあるとは思うが――あのカデンツァ(ソロの即興部分)はなんだ? ダラダラ等間隔で下降するだけって。牛のヨダレじゃあるまいし、センスの欠片もねェ」


そんな私の手厳しい意見も、黒江さんに麦茶を手渡されて赤面している室井の耳には、届いているのやら。


まあなんだ。


室井緑は、けっして感性のないマシーンではない。むしろ、その脂っこい巨体には、人間臭い情熱と血が通っていて――それはこの目の前の、カチコチとデレデレの相の子のような気持ちの悪い様子を見ても明らかだ。


まあ、今回は途中で『ピーッ』と異常に裏返った音を出さなかっただけ良かったものの、全部が万事慎重になりすぎて裏目のパニック状態になる、ある意味での思慮深さが仇となっている。音楽のみならず、パフォーマンスなんて基本的に目立ちたがりの厚顔無恥でないと出来ないのだ。だから音楽家みてみろ、アラサーにもなって幼稚園のスモックみたいなもの着て、お天気おねえさんと揃って面白い格好してやがる――ん、この喩え、二度目か?


「とーもーかーく!」


私は勢いよくグラスを机に置きながら言った。


「これから一時間みっちりと、どうやったら持ち主に見合うオモシロい演奏をできるか、教えてやるからな。あ、ちなみに黒江さんは『ご・は・ん・の・た・め・に』席を外さなきゃならんだろうけど、悪しからず――で、チビ達。さっさと帰らないと、オッサンの脂汗でびしょ濡れになるぞ。そうなると、ママ達の頭から角が生える――さあ、帰った帰った」


思惑通り、チビ達はギャーっと大騒ぎしながら、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。



ふう、まずは一件落着。




* * *




その夜遅く。


案の定、汗を軽く二リットルはかき、私のサディスティックなレッスンを被虐精神をもって大満足に吸収した室井は、黒江さんの作る揚げ物を常人の三倍は平らげ、妙にスッキリとした様子で上機嫌に帰って行った。


ちょっと粋な計らいを見せ、黒江さんと室井を二人きりにして頑張って洗い物をした私は、重労働の汗を洗い流すためにタップリと湯を張った湯船に浸かった。


贅沢かもしれないが、平家では夏場でも毎日風呂を沸かし、ザーッと湯の流れ落ちる音を楽しむ風習がある。それとタイルを打つ洗面器の音が相俟って、初めて風呂は風呂として成り立つのであり、そうでなきゃただの行水だ――というのが私の持論だった。


そして、ホカホカと湯気の上がる体を扇ぎながら、冷蔵庫へ向かう――ここまでが我が入浴作法。


オッサンらしく首からタオルを掛け、居間に向かうと、黒江さんが座卓の前に座ってなにやらスマホを片手に弄っていた。


「お先でした――ん、チャットかい?」


少々内斜視気味になりながら、真剣にタッチパネルを操作する黒江さん。


「ええ――モモちゃんと」


ご存じの通り、『平音楽教室』において上下関係は希薄だ。勿論、生徒には生徒らしく振舞う瞬間が大事だと説いているし、私もレッスン時には(室井の時のように)心を鬼にして厳しく当たることが多い。けれどそんな関係も、月謝の対価として提供されるべき時間のみで、後は概ね一個人として接している。黒江さんの場合は、二十歳そこそこの頼れるお姉さんとして。私の場合は――誰に対しても上から目線の、ウルサいヤツとして。


不器用すぎてタッチパネルを満足に扱えない私はさておいて、黒江さんはきちんと今時のコミュニケーションツールを使いこなしている。私もアプリは入っているものの、(前述の東京行きの列車にて打った文面のように)誤字脱字は多いし、内容も一方的で、会話というよりは便所の落書きに近い。そんなわけで、生徒からの非公式な情報の殆どは、黒江さんを介してやってくる。


「で、どうした? 平日のこんな夜更けに、メランコリーか? 寝る前に、あの母親の面白さを再認識して居ても立ってもいられなくなったか?」


「言い方!」


呆れと牽制を兼ねた叫びを上げた黒江さんだったが、すぐに嘆息して、


「でも、甚だ不本意ながら、当らずも遠からずなんですよ。ほら、そろそろ進路相談も含めて学校も親も必死になってくる時期でしょう? 将来のビジョンに対する、お母様との温度差で揉めてるらしくて」


私は鼻で笑った。


「『将来』って。中継点や道筋は知らんが、終着点だけはハッキリ教えてやれるぜ――『骨』だ」


意外にも黒江さんは、物分かりの良い様子で私の暴言に付き合った。


「私もそう思います――人生は何が起こるか判らないものですからね。今日は元気でも、明日トラックに撥ねられて死んでしまうかもしれない。ふと入った店で、運命的な出会いを果たして結婚するかもしれない」


「それは極論だとしても、本当に今の時代、一個人だけじゃなく社会がどうなるか判ったもんじゃないからなあ。一昔前は、入ったら一生安泰って言われていた大企業がリストラの嵐で、下手したら潰れているところも沢山あるし。業界自体も水物ってのが五万とある」


黒江さんは頷いた。


「でも、たしかにお母様の心配される気持ちも判るんですよ。目標らしきものが一つでもあれば、あの方の性質上、納得されるとは思うんです――でもモモちゃんは、今を生きるのに必死で、モヤモヤとした霧の中にいる。そこに思春期特有のちょっと反抗的なところが合わさって、お母様を余計不安にさせているんじゃないでしょうか」


黒江さん、それは買被り過ぎだ。モモは今を生きるのに必死というよりは、呼吸一つするにも疲労感を覚える、最近の若者に多い動物の生霊みたいなヤツってだけだ――それにしてもヤダね、自分も遂に『近頃の若いモンは……』って愚痴言う歳になったか。銀蔵爺さんと美味い酒が呑める訳だ。


「それでですね――多分、冗談だとは思うんですが、家を出たいとまで言っているんですよ。別に縁を切るとかじゃなく、ちょっとなんの煩わしさの無い世界に行って、思いっきり羽を伸ばしてから、新鮮な気持ちで元の世界に戻りたい――って意味だと理解しているんですけれどね」


「あー、やっぱインド行くと人生観変わっちゃうタイプかぁ……」


私はひたすらウンザリした表情を見せて言った。


「でも、いいんじゃね? 第一次世界大戦時の一九一四年十二月二十四日、フランドル地方で交戦中のイギリスとドイツの兵士だって、クリスマスの僅かな期間の平穏を望んで休戦した訳だし――それによって何が見えてくるとも思わんが、少しぐらいママンの羽音から逃れられる時間があっても良いだろう。うちだったら、別に駆け込み寺の真似事をしても構わんぜ」


「まあ、現役の女子高生を家に連れ込もうだなんて――破廉恥な」


と、笑う黒江さん。


「言っとけ」




そもそも、こんなおっかないしっかり者の助手さんが棲み込んでいる家に、女を連れ込める度胸が私にあったら、おふくろ様にやれ結婚しろ、やれ孫の顔見せろだなんて言われて無いわな!



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