二。
第十話
そこはアガルスディマ山脈の自然豊かな区域。植物も生物も多く生きるその場所で、草を踏み、地を蹴り、サリアナは獲物を追っていた。
大剣片手に駆ける彼女の眼球の動きは忙しなく。
「……この、ちょこまかと……!」
滅多に変えない表情を苦いものに変え、不満を声に出す。
それは、サリアナにしては実に珍しい状況であった。
何故なら、戦闘の際は自分の位置を感知されないよう余裕のある時にしか必要以上に音を立てないからで。
しかし声を発した今のサリアナは、少しばかり余裕を失くしている。
その原因となったのは、現在背を向け、先を行く標的。
今回の獲物は、人前に殆ど姿を見せる事がないサモーという獣である。手脚がすらりと伸び、長い爪を持つのっぺりとした顔のサモーは、サリアナの四倍あろうかという体躯を持ちながらもそれを全く感じさせない素早い動きで樹々を跳び移り、様々な方角へと駆けて逃亡を図る。
サリアナは後を追いながら、その身軽さに辟易とした。
サモーはその素早さで滅多に捕獲される事はなく、市場へ出れば妖魔並みの高値で取引される生物。サリアナは金儲けなどに興味はないが、捨てる箇所がない程に使えるその身を欲していた。何より、グウェンが喜ぶ。
そのため、偶々遭遇したのを幸いに追っているのだが。
サリアナは間に開く距離に眉根を寄せた。
僅かな間でも動きを鈍らせる事が出来れば追い付く自信はある。が、流石に此処からでは、剣が届かない。
(──仕方ない)
袖口に仕込んであった掌程の短剣を取り出した。
アガルスディマは枯れ地が多いため、樹は貴重。そこで生きるものにとって、必要不可欠な代物である。故に、使用する以上に傷付ける事は避けなければならない。
飛び道具の使用など極力控えるべきなのだが、しかしサリアナは短剣を飛び道具代わり使おうとしていた。
相手は素早いサモー。他の獣とは違い、避けられる確率は格段に高くなる。
それでも。
(外さなければ良いだけの事)
サリアナの感覚がより研ぎ澄まされる。
その
──シュッ、と、手首を返してサリアナが投じた短剣が風を切った。
それは、何にも傷を付ける事なく宙を飛び進み、そして──樹々を移った瞬間のサモーの足首に深々と突き刺さる。
「ヴグギャァ!!」
サモーは悲鳴を上げた。
当然のように動きは鈍り、サリアナは一気に距離を縮める。
痛みに呻き、それでも尚追手から逃れようとするサモーの目が向かって来るその姿を捉えた。
「──追い駆けっこは、終わり」
獲物の丸々とした瞳に映る自分の姿。いつもの調子を取り戻したサリアナはそれを無表情に見返し、握る大剣を振るった。
「……ふぅ、やっと着いた」
己の四倍はある巨体を背負う事は流石に出来ず、ずるずると引き摺っていたサリアナは、漸く辿り着いた家に息を吐き出した。
(後はグウェンに任せよう)
サリアナは狩った獲物を放置し、家の扉を開く。
「グウェーン」
「どうした?」
作業場として使用している部屋から顔を出したグウェンは、手招くサリアナの許へと歩を進める。
「狩りをして来たのか?」
微かに放たれる血の匂い。
首を傾げたグウェンに、サリアナは頷いた。
「うん。あれ」
外に放置したそれ。指で示すと、珍しい獲物にグウェンは軽く瞠目した。
「サモーを狩ったのか。──よく此処まで運んで来れたな」
「担げなくて、引き摺って来た」
「そうか。大変だったろう」
褒めるように、労うように小さな頭を撫でるグウェンに、サリアナは頬を緩めた。
「頑張った」
「お疲れさん」
目を細めたグウェンは今一度相棒の頭を撫でると、置かれたままのサモーの亡骸に近付いた。
自分には背負えなかったそれを軽々と担ぎ上げたグウェンの顔をサリアナは見上げる。
「役に立てた?」
小首を傾げるサリアナに、グウェンは目を和ませた。
「ああ。凄くな」
特殊な薬や香を作るには薬草の他にサモーの内臓が必要なのだが、在庫が切れたため、明日辺り狩りに出ようと思っていたところだった。
「良かった」
その返答に、サリアナは喜色を浮かべた。大好きなグウェンの役に立てる事は、大きな喜び。
「ありがとうな」
「うん!」
彼から贈られる感謝の言葉は、活力。
狩った獲物を処理する専用の作業小屋へと移動したグウェンは手際良くサモーを捌いてその皮を
「──よし。一休みするか」
「わたし、喉乾いた」
作業を終えたグウェンの後を追って、サリアナも家へと向かって歩を進める。
先を行く大きな背中は、直ぐに隣まで辿り着けるよう何時ものように進む速度を落としてくれて。自然と緩む頬をそのままに、サリアナは後もう少しで追い付くその背中に手を伸ばした。
──けれども、その手が彼の背に届く事はなかった。
突如、どくんっ、と心臓がその動きを大きくし、全身を巡る血液が
「っ!?」
突然の事に息を詰めて身を硬くしたサリアナは瞠目し、咄嗟に胸許と口許を押さえた。
「サリアナ?どうした」
異変に気付いたグウェンが踵を返し、駆け戻る。
「……な、んでも、ない」
顔を覗き込むグウェンに、サリアナは掠れた声で言葉を返しつつ首を振った。
異変がサリアナの身を襲ったのは、ほんの一瞬。けれどもそれは、感じた事もない程の強い恐怖を伴って。
青褪めるサリアナを、グウェンは横に抱き上げた。
「無理をするな」
頼もしい温もりに小さく頷いたサリアナは、縋るようにその腕をグウェンの首に巻き付けた。
(……気のせい。そんなはずがない。……気のせい)
あの一瞬に生じた渇望。
まさか、自分がそんな事を思うはずがない。
──グウェンを、喰いたいだなんて。
『──目覚めるが良い。さあ、我が血を覚醒させよ』
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