第二章 佐伯怜香   (七十)

孝一が店の玄関に現れると、なぜか番頭が先にいた。玄関先の暖簾を高床の先ギリギリに立ち、誰か中に早く入ってこないかと待っている様子だ。その真剣な表情は切羽詰まっていて孝一が後ろに来たことにも気がついていない。


―あれ?どうしたんだろう・・、番頭さん。そういえば朝から何度も玄関先で見るよなぁ・・。―

孝一は、今朝からいつになくそわそわとして、そのうえ妙にビクビクして見える番頭の姿を不思議に思っていた。


「番頭さん、どうしたんですか?誰か待っているんですか?」

番頭は、突然後ろから聞こえた孝一の声に心底驚いたように振り返った。そのうえ何か恐ろしいものでも見たように目を見開いて、身体を固くしている。


―どうしたんだろう?なにか心配事でもあるんだろうか?もしかして番頭さんも、ヤヤちゃんのこと心配してくれているんだろうか?―

そう思うと急に孝一は嬉しくなり、番頭の山下に笑顔を向けていた。


が、山下の方は驚いた顔のまま「若旦那・・」と小さく言っただけで、相変わらず顔も身体も硬くしたままだ。

その姿に段々、孝一の方も不安になってきた。そして、孝一の顔からは笑顔は消え、何か得体の知れないものを見るような目になり、「番頭さん・・」と泣きそうな顔で問いかけるように呟いていた。


と、そこに暖簾を大きく開けて、慌てて中に入ってくる人影が孝一の目の端に見えた。

その姿に孝一は、ーどうして、ここに・・?―の疑問の言葉が頭に浮かぶ。


相手は孝一の姿を見つけると「若旦那、申し訳ありません」と叫ぶと同時に玄関土間にひれ伏していた。

番頭は相変わらず、身体を強ばらせて首をスッ込めたままの横目で、孝一と玄関土間にひれ伏す相手とを交互に見ているだけだった。



その頃、怜香は葉月が呼びに来て板場へと向かっていた。朱鳥はぐっすり眠っているので、店とはいえ家の中、少しの時間くらいなら大丈夫だろうと部屋に残していた。


人のいなくなった静かな母屋に、朱鳥の小さな寝息だけが規則正しく微かに聞こえてくる。同じように、柱にかけられた時計の針が動くたび、小さくカチカチと規則正し音を響かせている。

その合間をぬって襖がスルスルと静かな音を立てて開き、畳をシュシュと、するような音が聞こえ・・。

また襖がスルスルと静かな音を立て、カッと遠慮がちな音がして閉まった。

そして、部屋の中には、またカチカチという時計の音が何も無かったように静かに響いていた。





丁度一息入れたくて板長が裏木戸を開け外に出て来た。出たついでに猫がゴミ箱を荒らしていないかとチラリと見る。

―でぇ丈夫だー

それから顔をあげて何気なく道の向こうを見た。

すると・・、

―ありゃ~、ナオちゃんじゃねえのかぁ?―

板長の目の先には草履を手に持ち、着物の裾を大きく翻して走ってくる直美の姿が見えた。


「どうしたんでぇー、そんなに慌てて!」

近づいてくる直美の顔が今度ははっきりと見える。


―鬼みていじゃねぇーか!―

今度は板長の方がひるんで後ずさりした。だが直美は走るスピードを落とそうとはしない。板長の横を走り抜け、開いた裏木戸に突進していった。

慌てた板長が「どうしてんでぇー!」と叫びながら直美の後を慌てて追ってくる。


「朱鳥ちゃんが!」

直美はそれだけ言うのがやっとだった。

息は切れ、喉はからからに渇いて、これ以上何かひと言でも言えば喉の奥がひっつきそうだ。だから板長がいくら直美に返事をしろと怒鳴ったところで、あとの言葉など続きはしない。

それに、そんな余裕も暇も今の直美には無い。


「ちぃせえ嬢がどしてぇー」

なおも板長は後ろで直美を追いかけながら叫んでいる。

だが直美は無言で走った。板長が追いかけてくるなら勝手に追いかけてくればいいといわんばかりに、板場の建物をぐるりと回って、母屋へと続く廊下の前を走る。


走る直美の目に、廊下のガラス窓ごし向こうに、遠く・・、壁に立てかけられている鉄製の鈍い銀色がチラリと見えた。〝早く、早く〟直美の心は幾度もそう叫びながら廊下と平行に走る。

それから母屋の表の庭に出るため、裏から走り抜けようとした直美の目に、足場を取り終えた職人3人が、豆大福を持った手を止めて不思議そうに直美を見ていた。


―ああ、朱鳥ちゃん・・―

いつもなら、職人にだすおやつの茶菓子は母屋の表の庭で出す。だか、今日は裏手の方で皆休んでいた。


―あいつだ、あいつがわざとここに出したんだ・・―

自分の姿を誰にも見られないようにするために・・。直美は腹の底から怒りがこみ上げて来た。走る足元に力が入る。

裏庭を抜けて角を曲がり、建物側面の壁を表の庭へと一気に走り抜けた瞬間。

渡り廊下を正面にしたコの字型になった建物右手縁側から、庭におりる為に置かれた一段下の大きな石の上に、縁側の端に小さな可愛らしい手をかけて、ユラユラ身体を支えながら朱鳥が必死になって立っていた。


「朱鳥ちゃん!」

言うが早いか直美は朱鳥に向かって走った。

不安定な格好で立っていた朱鳥は直美の声に気がついて、石の上にペタンとお尻をつけ直美の方に笑いながら手を伸ばしている。

抱いて欲しいのだ。

いつものように直美が自分を抱いてくれると信じて、嬉しそうな笑顔で無邪気に手を伸ばしている。

後ろで板長の「てめぇー、なにしてやがる!」と叫ぶ声と、大きな足音、そしてガラガラいう金属音が聞こえた。

が、直美は振り返らなかった。


―間に合わない!―

咄嗟にそう心の中で叫んで、直美は無我夢中で朱鳥を自分の身体全てで抱きしめるとその場に蹲った。

ガッンガッンと二回、自分の肩と頭に衝撃が走った。頭に激しい衝撃を受けた瞬間、目の前に白い火花が散った。

その後も何回か衝撃はあったが、初めのそれよりは痛さも衝撃も感じる事は無く、まるで夢の世界のように思えた。

ふわふわした意識の中で直美は、途切れ途切れに自分の名前を聞いたような気がする。


時々見える途切れ途切れの光景に、孝一の黒いメガネと、怜香の淡いピンク色の着物の色に広がる小さな白い花。それに、真っ青な顔の・・、恵子の顔が遠くに見えたような気がした。


―朱鳥ちゃん・・―

小さく、そう自分の口が動いたような気がする。と、グニャグニャの自分の腕を持ち上げる板長の白い服の袖が見えた。

ふっと下を見ると・・。小さな朱鳥の黒く濡れた大きな瞳が驚いたように見開き、じっと自分を見上げていた。


―ああぁ、無事だったんだ…。―


―・・静か・・―


直美の意識はここで途切れた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る