第二章 佐伯怜香 (七十一)
「どうしたんだよ?番頭さん?」
そう、孝一が声をかけた相手。玄関土間にひれ伏して小さく震えているのは前の番頭。引退して今は田舎に引っ込んだはずの山下の父親だった。
「若旦那、申し訳ない。このバカが、女にとち狂ってとんでもないことをしでかそうとしているんです。親としてこんな情けないことはねぇー」
そう言うと前番頭は、老いた小さな身体を土間にひれ伏したまま泣き出した。
「俺は悪くない。何も知らなかったんだ。あいつと冴子お嬢さんが決めたことだ・・。俺のせいじゃない」
「叔母さんが?どういうことだい番頭さん?」
孝一が不思議そうな顔をして前番頭と現番頭を見比べて聞いた。
「そぉ・・、それは・・」
現番頭の山下が、孝一の真っ直ぐに問う目をさけてオドオドと視線を泳がせる。すると突然大きな声がして…。
「朱鳥ちゃんを事故に見せかけて殺すことよ!どいて、じいさん!泣いていたって何にも始まらないわ!」
いきなり一楽の玄関にかかる大きな暖簾を引きちぎるくらいの勢いで入ってきた恵子が怒鳴りながら言った。
「朱鳥を殺すってどういうことです」
今度は孝一が驚き興奮して恵子に叫んだ。
「朱鳥ちゃんは、何処!」
恵子の声が孝一に向けて発せられたとき、奥の方からガラガラと金属の崩れる音と、ガラスの割れる激しい音が響いた。
「孝一さん!」
恵子は叫んで靴を脱ぎ捨て、土間から高床に飛び乗っていた。勢い番頭の山下を恵子は突き飛ばした。番頭の山下は頭から土間へと転げ落ちた。
孝一は、恵子の激しい声とその姿に動かされて奥へと走る。
途中、板場にいた怜香が何事かと思うほど激しい音に慌てて廊下に出てきていた。
その前を、「怜香さん、朱鳥が!」と孝一が叫んで走る。
その後ろを、ここにいるはずのない恵子が「怜香さん、早く!」と叫んで走っていく。ただごとではないこの状況に怜香も母屋に向かって走り出していた。その後ろを仲居頭の葉月が慌てて追いかける。
母屋に走り込んだ四人が見たものは、縁側めがけて落ちた幾つもの金属の足場がガラス戸を破壊した無残な光景の真ん中に一点。
庭に降りる石の上で何かを必死に守るように包み込んで蹲り、頭から血を流している直美の姿と・・。
倒れた足場が置かれていた壁の近くで、ルリの腕を摑んで土の上に押さえ込む板長の姿だった。
「こいつが、ちいせえお嬢さんめがけて、この足場を倒しやがったんだ。それをナオちゃんが身体はって…」
後は言葉にならない。
悔しそうに下唇を噛んでいる。
「ヤヤちゃん!」
孝一が慌てて倒れ込んだ足場をよけながら直美に近づく。
騒ぎを聞きつけ裏の庭から顔を出した職人達に、ルリを取り押さえていてくれと板長が激しく言って、こちらに走ってきて孝一と一緒に慌てて足場をどけた。
直美はピクリとも動かない。
「ヤヤちゃん!」
もう一度、孝一が叫んで直美を揺り起こそうとした。
「ダメだ、若旦那。頭を打ってるんだ、下手に動かしたら危ねえ。葉月、救急車だ。救急車を直ぐ呼べ!それから警察もだ!」
「あいよ!」
仲居頭の葉月は飛び跳ねるように走っていった。
「そぉーと、そーとだ。若旦那」
板長の声に孝一は頷き。二人は直美の身体をそっと持ち上げる。まるでお人形さんのように直美はされるがままだった。
直美の胸の中から、丸い大きな目をびっくりしたように見開いたままの朱鳥が現れる。
「朱鳥!」
怜香が悲痛な叫びを上げて走り寄った。その声に、ビクンと身体を小さく跳ね上げた朱鳥が大きな声で泣き出した。
「よかった、ちいせえお嬢さんは無事だ。無事だぜぇ、ナオちゃんよ!」
板長の声が涙声になっている。
「ヤヤちゃん、ヤヤちゃん、しっかりするんだ!ヤヤちゃん!」
孝一が直美の耳元で呼びかけると・・、直美の指先が微かに動いた。
「若旦那!」
「うん、今、動いたよ!板長!」
孝一の希望に満ちた大きな声が響く。泣き止まない朱鳥を腕に抱いた怜香も一筋の希望に祈るような目で直美を見た。
その後ろで、両手で口を押さえ、泣くまいと必死に堪えてその場に座り込む恵子の姿があった。
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