第二章 佐伯怜香 (六十九)
「おまえ、明日本当にやる気なのか?相手はまだ一歳にもなっていない赤ん坊なんだぞ?」
「だからなに?それが、どうしたのよ!」
「恐ろしい女だな・・、おまえ」
「今更なに言ってるのよ。ここでやらなきゃ今まで冴子さんから貰ったお金を返さないといけないのよ。返せるの?もう全部使っちゃってて無いのよ!分かってんの?あんた!」
「分かってる。分かってるが、この件に関して俺は手を引かせてもらう。金のことは後で考えりゃいい。やりたきゃ、おまえ一人でやってくれ。いくらなんでも俺はごめんだ。あんな・・、小さい子を・・」
〝おまえも、冴子お嬢さんも鬼だ〟と、番頭の山下の目はルリを非難していた。
が、それに負けないくらいの険しい目で、〝何なのよ、この男。本当に肝心な時には、いつも尻込みして役に立たない奴〟と、ルリは番頭を睨みつけた。
二人は暫くの間無言で睨み合っていたが・・。
「とにかく俺は知らない。今の話は聞かなかったことにする」
そう早口で言うと番頭の山下は、そそくさと納戸の引き戸を開けて出て行った。
後に残ったルリは、腹立ち紛れに踵を思い切り床に二回ドンドンと打ち付けて「みてなさいよー」と小さな恨みを込めた言葉を吐いて悔しがっていた。
一方、焦って納戸を出た山下は帳場に向かいながら心の中で考えていた。
―あんな恐ろしい女とは、もう一緒にはいれない。いられない。ー
「これなら、口うるさくてもあいつの方がまだましだ」と、山下はガミガミとうるさいしかめ面の古女房の顔を思い出した。
―別れよう。今すぐ、あの女とは別れよう・・。―
人殺しの片棒なんか担ぎたくも無い。
怜香が妊娠していた時に流産させるのとは訳が違う。
目の前にいる小さな赤ん坊を殺すことなど、小心者の山下に出来るわけがなかった。
それに、なんだかんだと言っても山下は、父の代からこの一楽で世話になって働いている。途中からやってきたルリとは違う。微妙に孝一に対する思いも、自然ルリとは違うものがある。
それは、冴子に対しても同じことで・・。だから冴子の甘い言葉についつい乗ってしまったところがあった。
だが、今はその事をひどく後悔している。
―冴子お嬢さん、あれは病気だ。先代の旦那が生きているうちから貰うもんは貰っているはずだ。だのに、まだ、そのうえ・・、一楽を欲しいだなんて考え違いもいいところだ。どうせ、旦那さんと上手くいってないからだろう。―
輸入品を扱う会社の経営者である冴子の夫には、若い愛人がいるらしいと言うことをチラリと父親から聞いた事がある。
多分、その腹いせに、一楽の大女将に八つ当たりしているのだと父親が言っていたことを今、思い出していた。
ここに来て山下は、ようやく目が覚めたようだ。
―だが、このことを大女将に言えば…。俺はどうなる?―
―けど、黙っていて・・。このまま小さいお嬢さんが・・―
「ああぁー、どうすりゃいいんだ!」
だが、何とかしなければいけない。黙っていたことがばれれば自分もあの女と同じだと思われる。
それは違う。
断じて違う。
自分は、このことに関しては関係ない。ルリと冴子が勝手に二人で決めたことだ。
―それは嫌だ。絶対に・・、俺はなにも関係ないんだからな、―
だが、知らせるにしても、自分に火の粉がかからないようにしなければ・・と。ここに来ても山下は、何処までも自分に都合の良いことを頭の中で思い描き。
自分に有利に動く答えを探していた。
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