第二章 佐伯怜香   (六十八)

「朱鳥ちゃん、寝たの?」

孝一が襖を開けてそっと部屋を覗きに来た。

「ええ、いま寝たところよ。さっきまで直美さんを探していたけどね。諦めて寝ちゃったわ」

怜香が、にこやかにこたえる。あはっ・・と、いう顔で孝一が楽しそうに笑った。


「牧原さん、幼馴染みの人から電話があって出かけて行ったんだよね?」

「ええ、そうよ」

「田舎のお友達かなぁー。ここに来ればいいのに・・」


どうやら孝一は、店からさほど離れていないそば屋で食べるくらいなら、板長に何か作って貰った方が良かったんじゃないかと考えているようだった。


「知らない人がいるところは敷居が高かったんじゃないかしら。それに、ここは直美さんの仕事場だから・・。きっと、遠慮したのよ」

「そうか、でも気にしなくていいのになぁー。僕は気にならないけどなぁ・・」

「向こうが気にするのよ」


困った人ねというように眉を寄せて笑う怜香に、孝一はちょっと口を尖らせると、「じゃ、僕、玄関の掃除にもう一度行ってくるよ」と言いながら襖を閉めて出て行った。


「困ったお父さんね。きっと帰ってきた直美さんを捕まえて話がしたいのよ。幼馴染みのお友達って、どんな人?って・・ね」

怜香は小さな手を軽く握り、バンザイした格好ですやすや眠る朱鳥の愛らしい寝顔に小さな声でそっと語りかけた。



―直美さんがいてくれて、本当に助かる・・―

怜香は直美に心から感謝していた。直美がいなければ現実問題として女将業と新米母親業を両立できたかは怪しい。

それこそ無理をしないようにという理恵のアドバイスも、何の役にも立たないくらいに疲れ果てていたかも知れない。


―直美さんが私の代わりに夜泣きする朱鳥の世話をやいてくれなければ、今みたいに、孝一さんに対して笑顔でなんて余裕の顔も出来なかったかも知れないわ・・。―

だから少しくらい直美の申し出に融通をきかせてやるくらい、どうということは無い。勿論、孝一もそのことは十分理解しているのだがきっと寂しいのだろう。

自分の知らない相手といる直美の時間が不安なのかも知れない。


―やれやれ、困った人・・―

孝一にとって、既に直美はもう赤の他人では無くて家族の一人になっている。多分、亡くなったお姉さんの代わり。

だから・・。

―妹みたいな感覚になっているのよね・・―


「それ自体は悪くないんだけど・・ね、朱鳥ちゃん。ただ、直美さんにとって、それが本当にいいことなのかが、ね」と怜香は眠る朱鳥相手にため息まじりに話していた。


孝一は直美の本当の気持ちが分かっていない。多分、直美も孝一に対する自分の本当の気持ちに気がついていない。

今はそれでいいかもしれない。

でも・・、と怜香は考える。


「直美さんには幸せになって欲しいのよ。だから、このままではいけないのよね。私も甘えている。ズルいことだわ・・」と怜香は自分を責めるように、誰もいない朱鳥の寝息だけが聞こえる静かな部屋でポツリとそう自分に言った。

言った後で胸がキュンと切なくて、辛くて、苦しくなってきた。


このままではいけないと分かっていながらも、直美を手放すことが出来ずにいる自分がいる。このままずっと側にいて欲しいと思うズルい自分がいる。

直美のことだ。こちらが何も言わなければ、何もしなければ、ずっとここにいるだろう。怜香や朱鳥の為にいてくれるだろう。

孝一を好きだという気持ちに気づかずに、自分のことを二の次にしていてくれるだろう。


でも、それでは直美の幸せはどうなるのか・・。女性として一番輝かしい時をムダにしてしまうのでは無いか。

孝一と直美が結ばれることは無い。それは仕方の無いことだ。

だけど、それを利用して、直美をここに縛り付けて都合良く自分たちの為に直美の人生を利用するのはフェアじゃない。


―それは、いけない、いけないことよ。人としてやってはいけないことよ。ズルすぎることだわ。ー

もう迷うまい。

そう考えた怜香は次の休みに、理恵にこのことを相談しに行こうと固く心に決めた。



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