第二章 佐伯怜香   (六十七)

「直美さん、こっちこっち!」

ガラス格子の引き戸を開けてお店に中に入ると、恵子が腰を半分浮かせてにこやかな顔で手招きしていた。

直美はその日、旧姓広瀬恵子、今は結婚して田口恵子なった昔の先輩に店から歩いて少し離れた駅前のそば屋に呼び出されていた。


「すみませーん。遅くなりました」

着物姿の直美が、恵子の顔を見てほっとして微笑んでいる。

「いいのよ、こっちが勝手に呼び出したんだから・・。お店?大丈夫だった?」

「ええ、昔の幼馴染みと会うんで、お昼抜けさせて下さいっていったら、あっさりいいよって言ってもらえました」


お昼といっても、昼の客はそろそろ終わる午後2時前で、これから二人がお昼を食べるそば屋の客もまばらだった。


「相変わらず、口八丁ね。この私が、あなたの幼馴染みとは笑えてくる」

恵子がのけぞりながらおかしそうに言った。

「すみません。そういうほうが出やすいかなぁー・・なんて思えて」と直美が肩をすくめてペロリと可愛らしい舌の先を出して言った。

「まあ、そうね。その方が聞いた相手もすんなり返事か出来るよね。さすが人あしらいの上手い直美さん」

「嫌だ、からかわないでくださいよぉー。もぉー、意地悪なんだから、恵子さんわ」と二人で顔を見合わせてケラケラと笑った。


「ところで?どうしたんですか、私に急用なんて?」

「うん、真剣な話なの・・。でも、信じてもらえる人にしか話せない」

「信じてもらえる・・?ですか」と直美はいいながら、自分で自分の人差し指を使って自分の顔を指さした。


「そう、信用出来る人、あなた」

恵子の目は真剣だ。

すると、「お待たせしました」の声と共に愛想のいい店員が、恵子が勝手に頼んでいた天ざるを二つ持ってきた。


「いやだ、もう頼んでたんですか?」

「そう、連れが入ってくる姿を見たら直ぐに作って下さい。連れは仕事を抜けてここに来ますから、素早くお願いしますってね」

「恵子さん、変わりましたね。それに、なんだかきれいになってるし…」と直美は大きく目を見開いて驚いたように恵子を見た。

その姿を、恵子は面白そうに見ながら、「さぁ、食べましょう」と朗らかに言う。


恵子のにこやかな笑顔に、急用と聞いてここに来るまでの間、何かイヤなことだろうかと思っていたが、案外取り越し苦労かもしれないと思いなした直美は、「はい、そうですね。美味しいうちにいただきます!」と笑いながら箸を取り食べ始めた。



恵子は、天ざるをあらかた食べ終えた直美を見て、昨日聞いた欲どおしい人間の話をしだした。もう恵子の顔は笑ってはいない。真剣そのものだ。

話しを聞いた直美の顔がみるみる青ざめていく。


「それ、本当ですか!」

「声が、大きい」

いわれた直美は慌てて片手で口を押さえた。一番奥の席で、客は直美達と玄関近くに若いサラリーマンが一人。

店員も厨房の中に引っ込んでしまっているから、誰にも聞こえはしなかったようだが、直美は抑えた手をそのままにして周りを素早く見た。


そして、身体を低くして、向かいに座る恵子の方に顔を寄せる。

「それ、多分、一楽を出入り禁止になった前の旦那の妹さん。孝一さんの叔母さんの冴子さんです。そしてもう一人の派手な顔の女は、一楽の仲居のルリさんです」

「やっぱりそう。何となく、あの派手な顔の女は、怜香さんに結婚の報告をしに行った時に、一楽で見たような気がしていたのよ・・」


恵子が喫茶店で盗み見たルリは、長い髪を下ろして洋服姿だったから、なんとなく一楽で見た着物姿とは違っていたので、そうだと断定する自信が無かったのだ。

「恐ろしい・・。なんて人達なの・・」

直美の言葉に恵子は大きく頷く。信じられない悪魔のような人達だと言いたげだ。


「でも、どうして・・」

そこにいたんですか?と直美の目が恵子に問いかける。

孝一の叔母の冴子と一楽の仲居のルリが、店から遠い他県の町で、それこそ誰も知らない小さな喫茶店にいるのは分かる。


―誰にも、一楽の誰にも、見つからないようにするためだ・・。―

でも恵子は違う。なぜ?いたのだろう・・と、直美はふっと疑問に思ったことが口に出た。


「そこ、コーヒーが美味しいのよ。私の祖父の隠れ家的お気に入りのお店なの。その日も祖父母と三人で出かけて、たまたま途中で別行動になってね。だから、その喫茶店で待ち合わせしていたのよ。ほんと、恐ろしいくらいの偶然がそうさせたのよ。まさかあの場所で、一楽の名前を聞くとは思わなかったもの、私もね。でもこれは運命だって思えた。だから直ぐに知らせなきゃ、でも誰に・・って、一晩考えたの」と恵子が言った。


「そうだったんですか、それで私に・・。でも、悪いことは出来ないってことですよね」

「そう、そういうこと。で、その足場はいつ?取られるの?」

二人の女は足場が解体されて立てかけられた状態でなら、安易にもう一人の女の力でも倒すことが出来る。小さな一点を狙えると話していたと恵子は息を殺して聞いていた。


「たしかぁ・・。あっ!今日、今日です。でも、私がお店を出るときはまだ・・」

「急がないと!」

二人は慌てて席を立った。


「直美さん、ここの代金は私が払うから、あなたは先にお店に行って!」

財布を取ろうとして焦り、カバンを床に落として中身をぶちまけた恵子は、しゃがんだままの格好で半分叫びながら直美にいった。

入り口に座るサラリーマンが目を丸くして、食べかけのそばを箸に取ったまま固まって二人を見比べている。奥の暖簾をおして、店員が何事かと慌てて出てきていた。


「はい!」

そう大きく返事した直美は、もう恵子の姿などは見てはいなかった。恵子の声を後ろに聞きながら慌ててそば屋を飛び出す。

そして、そば屋を出て直ぐに、直美は走りづらい草履を転びそうになりながら脱いで手に持った。


直美の心は既に一楽にいる小さな朱鳥のもとに飛んでいたが、追いつかない身体の方は必死になって一歩でも早く一楽に着こうと必死だ。だから着物の裾がはだけようが、足袋のままで草履を手に持って走る姿に道行く人がギョッとした目で直美を見ようが気にもとめなかった。


直美はひたすら、〝朱鳥ちゃん、朱鳥ちゃん〟〝早く、早く〟とただそれだけを頭の中で繰り返し、なりふり構わぬ格好のまま一楽へ、朱鳥のもとへと全速力で走っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る