第二章 佐伯怜香 (六十五)
直美が理恵のところから帰ってこれという出来事も無く、ほぼ9カ月近くが平和に過ぎようとしていた。
あの日以来、直美は自分の部屋には荷物を取りに行くだけで、相変わらず一楽の母屋で寝泊まりをしていた。
だから、夜中に朱鳥が泣くと飛んで起きてきてミルクを作り、怜香の代わりに授乳する。ぐずれば抱いて部屋を出てあやした。
少しでも怜香を寝かせるためにだ。
―怜香さんは、其山怜香さんは胸に弱さが出ているの、だから無理をすると弱いところに来てしまう。気をつけないと、取り返しのつかないことになることもあるからなの。私は、それが心配で・・ー
あの日、理恵は直美にそう言った。
怜香は、昼間は母親、夜は一楽の若女将として一生懸命だ。どうも怜香は夢中になると自分の身体に無理をしても、与えられたことを見事にやってしまうところがある。
それをやめろと言っても・・性格的に出来はしない、土台無理な話なのだ。だったら、自分がサポートすればいいと直美は考えた。
―だから、寝不足が一番の大敵―
朱鳥も随分大きくなり。ハイハイも上手に出来るようになった。
夜泣きも減ったが、この日、小さくぐずる朱鳥を抱いて、直美は庭に出て月を見ていた。
「朱鳥ちゃん、綺麗な月でしょう。もうすぐ中秋の名月、重陽の節句のお祝いもあるのよ。お月見だんごやススキを飾って、綺麗なお月様をお祝いしましょうねぇ~」
直美の言葉を一生懸命聞いているのか、朱鳥は小さな手をキュッとにぎって大きくて綺麗に濡れた黒い瞳を一心に向けてくる。
その愛らしさに直美は微笑んだ。
―幸せ・・―
そう直美が心の中で朱鳥に話しかけた瞬間、後ろから声がした。直美は、自分の無防備な心を見られたような気がして飛び上がらんばかりに驚いき、素早く後ろを振り返った。
「牧原さん、ごめんよ。仕事で疲れているのに、いつも、いつも怜香さんの代わりに・・、ごめんよ」
―空豆・・―
そこには情けなさそうに眉毛を八の字にした孝一が、シュンと肩と首を落として立っていた。
直美は、その姿に思わず笑い出す。
「いやだ若旦那。そんな情けない顔しないで下さいよ。私は好きでやっているんですから・・。ねぇ~、それに朱鳥ちゃんは可愛いものねぇ~」と、胸もとの小さな愛らしい瞳をのぞき込んだ。
―孝ちゃん、もう・・、ヤヤちゃんとは言ってくれないんだ。二人きりでも・・。そして私も・・―
なんだか下を向く目に涙が膨らみかける。
―いけない、へっこめ!今、涙は必要ないんだから・・―
直美は大急ぎで笑顔を作り孝一を見た。幸い優しい月明かりは直美の涙を隠してくれた。
「もう、遅いから中に入った方がいいよ。牧原さんも明日、朝早くから仕事があるんだし、後は、僕がするから」
「はい」
そう返事して朱鳥を見ると、さっきまでぐずっていた朱鳥は無邪気にスヤスヤと優しい寝息を立てて眠り始めていた。
直美から、安心しきった朱鳥の小さな身体を抱き取ると「おやすみ」といって孝一は廊下の向こうに消えていった。
後には静かな月と、優しい風が直美のもとに残こる。ふっ・・と直美はその時思った。
―私、ここにいていいの・・―と、小さな不安とも疑問とも言えない何かに心を支配されたかのように思えた。
が、誰もその答えを教えてはくれない。
ただ、静かな夜が深く深く周りを眠らせているだけだった。
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