第二章 佐伯怜香   (六十四)

「そう、そうなの・・、そんなことがあったのなら、私が怜香さんにいったことを直美さんが気になるのも仕方の無いことね」と理恵は言った。

直美は頷き、子どもが云々のところは、はしょって理恵に伝えたが、それでも十分怪しい人達を警戒する必要があると言うことは伝えられたと思った。


「すみません。理恵さん、理恵さんが悪いわけじゃ無いんです。あの人達が、なにを考えているのだか分からないから用心したいんです」

直美の顔は真剣だ。理恵もその思いを理解した。

「そうね、はっきりとした証拠も無いのに・・、辞めてくれともいいにくいことだしね。それに、直美さんにその権限はないことだし。仮に、聞いた事を正直に話したところで信じてもらえるかどうかも分からない。下手をすれば悪質な告げ口になってしまいますものね。辛いところね」

理恵の顔が歪む。


「はい、そうなんです。孝ちゃんは人を疑うことを知らないから・・。それに、怜香さんには余計なことを耳に入れて赤ちゃんに悪影響があったら嫌だし・・って考えたら。私が二人を守るしかないって気がついたんです」

直美の顔が輝いた。思わず…、「直美さんはいい人ね。怜香さんが、それに気がつかない自分は大馬鹿者だといっていたことを思い出すわ」と言って理恵は微笑んだ。

「えっ?いゃだー、そんなこと無いですよ」

直美は心底おかしそうにゲラゲラと笑った。足元のチャロが驚いて顔をあげ、直美をジッと見ている。

きっと自分で自分の優しさを認めるのは恥ずかしいのだろう。何となく分かるような気がする。理恵は優しく微笑み、お茶を手に取り、膝にいったん預けてから直美に向かい静かに話し出した。


「私は、名前は生きていると思うのよ。ただの文字では無い。生き物だと思うのよ」と理恵が言った。

「はい」とこたえる直美の声も真剣だった。

「勿論、その人を認識することが出来る最大の言葉だとも思うわ。でも、それ以上に、その人の人生を導くものだとも私は思っているのよ」

「はい、分かります。だから私のことはみないでくださいね。理恵さん」


―どうして?―

思わず声が出そうになったが・・、理恵は黙って頷いた。名前の事実を知るのには勇気のいることもある。

だから、嫌がる相手に無理矢理自分の考えをおしつける気も理恵には無い。知りたくないというなら、自分も心のカーテンを閉めて見なければいいことだと、理恵は静かに頷き、直美の気持ちを大切にしようと思った。




「話を怜香さんのことに戻すわね。でも初めに言っておきたいの。もし怜香さんと朱鳥ちゃんに、これから将来において危険なことが迫っているかもしれない今の状況が無ければ・・。この話は、たとえ直美さんでも私は話してはいない・・ということを頭に入れておいてほしいの。だからここで聞いた事は、ここでしか話さない。私としか話さない。他の誰とも話はしないと約束してくれる?直美さん」

直美に向けてそう言った理恵の顔からは笑顔が消えていた。

「はい、お約束します」

直美も真剣な顔でこたえた。


「分かったわ。まず初めに、直美さんも一緒に聞いていた朱鳥ちゃんの名前だけれど・・。怜香さんが、どうしても〝あすか〟という響きというか・・、言葉というか、この名前にこだわったの。ひらがながいいか、漢字がいいか、どちらにしても生まれてくる子の名前は〝あすか〟にして欲しいといったのね」

「男の子でもですか?」と直美がやや驚いたように聞く。

「ええ、そうよ」

理恵のこたえに直美は小首をかしげながら、「なにか意味があるのかなぁー・・。可愛らしい名前には違いないけど」と、独り言のように呟く。


「そうね、私も詳しくは聞いていないのよ。ただ、時間を頂戴と言ったの」

「良くない名前だからですか?」

「いいえ、良すぎて母親との相性がちょっとよろしくなかったの」

「そうなんですか・・。良すぎて・・。そんなことあるんだ」という直美の声には、良すぎるのがどうしていけないことなのだろうかと思っているように聞こえたので、理恵はもう少しわかりやすくと思い、直美に向けていった。


「ええ、言い換えれば母親の良いところを全部貰うことになる名前だから。似すぎて、お互いが真っ正面から激しくぶつかりあってしまうと言った方が分かりやすいかしら」

「それって、親子でつぶし合いするってことですか?」という直美のストレートな言葉に、なんと返事をして良いものかと理恵の身体が一瞬固まる。

すると、直美は返事にこまった理恵の様子からなにか自分なりに納得したようで、「あっ、なるほど・・。でも、だから朱鳥ちゃんって、他のどの赤ちゃんよりも可愛いいんですね」という。

一瞬にして朱鳥の可愛らしい顔が浮かび、「そうね。確かに身内の欲目や、知り合いの欲目を差し引いても、朱鳥ちゃんは文句なく可愛いわよね」といった理恵と直美が目を合わせて楽しそうに思い出し笑いをした。


「でも、良くない方向に行くのを良い方にいくように、理恵さんが一番いい付け方を考えてくれて、漢字で朱鳥ちゃんにしたから文句ないんですよね?相性の方の問題わ?」と直美が念押しして聞いて来た。

「ええ、その点は大丈夫よ。ただ・・」と、理恵が言いよどむ。

「ただ、結婚して三年は・・ですよね。理恵さんが怜香さんに気をつけなさいって話したのは?でも、それってどういう意味なんですか?」

「直美さん、怜香さんの旧姓は知っているわよね」

「はい、其山です」


「そう、其山怜香さん。今は結婚して佐伯怜香さん。それだけのことだけど、怜香さんは佐伯姓になって驚くくらい自分を輝かせて生きることが出来るのよ。それくらい華やかで、輝く人生を貰ったの・・。多分、それは、一楽の若女将として天性の勘を使って生き生きとして生きる。怜香さん自身が、仕事と家庭の両方の幸せを手に入れて生きられることが出来るということだと思うわ。但し、それは結婚にして三年たってからなの。それまでは、其山怜香さんの時に持っていたある部分が顔を出さないように、くれぐれも気をつけて欲しいと怜香さんにお願いしたの」


「と・・、いうことは、怜香さんが結婚式の前に籍をいれて佐伯怜香になったのが二年前の十一月末。結婚して二年目の終わりの今月、十一月十日に朱鳥ちゃんが生まれたから・・。あと、ほぼ一年の間は気をつけないといけない、って言うことですよね?」

「そうなるわね」


「具体的には、どう?気をつけたらいいんですか?理恵さんはこの前、怜香さんに杉山産婦人科の部屋で、無理をしないようにって言っていましたけど・・。どう無理をしてはいけないんですか?それに、其山怜香の時の、その・・。ある部分って具体的にはなんなんですか?」

直美の目は真剣そのものだ。これは、適当に言葉を濁しても私は納得しないと言っているようなものだ。


―さて、何処から話しますか・・―

理恵は心を落ち着かせ、言葉を選びながら大きく深呼吸していた。


そして、理恵の話を聞き終えた直美は「分かりました」とポツリと呟き・・。

「理恵さん、お願いがあるんです。聞いてもらえますか・・」と静かに理恵の目をみて言った。そして、その直美の言葉に、不思議と理恵はなんの抵抗もなく深く頷いていた。これから直美がどんな話しをするのかも分からないのに頷き、直美の願いを聞く前から承知していた。

―誰かが前に出れば、誰かが後ろに下がる。それは仕方がないこと、だけど…、―

あぁ、でもこれは運命なのだと理恵は承知した。


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