第二章 佐伯怜香   (六十三)

その後、番頭の山下とルリは唇と唇を離し、近距離で見つめ合ったまま恐ろしい言葉を吐いた。


「食べ物に細工したり、滑って転ばせて流産させてやろうと思ったのに。ことごとく、あの直美って女に邪魔されたわ!」とルリが吐き捨てるように言った。

「焦るなよ。冴子お嬢さんのアイデアに乗りすぎてばれたらどうする?」と番頭の山下がこたえる。

―聞きたく無いー

直美の心はそう叫んだ。だが、知らなければいけない。怜香と生まれたばかりの小さな命…、朱鳥を守る為にも、この二人が何を考え、何をしようとしているのかを知らなければいけない。

そう思った直美は、恐怖で声をあげて叫びたい衝動を必死に堪えた。


「あら、そう。でも、しないとあの女が子どもを産んだら、一楽の跡取りになるじゃ無い。そうなれば冴子さんだって手が出せない。だったら・・、どうなるの?よ。そうなれば、私は女将にはなれない。あんたは旦那にはならないのよ!そこのところを分かってんの?あんた」とルリが番頭の山下に向けてまくし立てた。

「分かっているって、でも、焦るなよ、なぁ」

情け無い山下の声が聞こえる。


―この男、根性もないくせに、良いとこ取りだけしたいの最低男だ。ー

直美は山下の情け無い声に、さっきまで感じていた恐怖よりも、人を陥れ、傷つけ、奪おうとしている身勝手で欲どうしい二人の考えに怒りが湧いてきた。



「もぉー」

ルリが拗ねたように山下の肩を軽く叩いた。

―吐きそう、気持ち悪いこの女。―

直美は違う意味で、口に当てた手に一層力が入る。


「さぁ、機嫌直して、手伝いに行くぞ。いい番頭、いい仲居の評判をつけて置かないと、それこそ事をなしたときに誰もついて来てくれない。それは分かるよな、」

今度は、さっきとは違う山下のネチッとした、まとわりつくような声に、―こいつ、人間じゃない。ー という自分の頭に響く声に直美はぞっとする。

そして、「ええ、分かったわ」と、ルリのニヤニヤ笑う顔が心底気持ち悪いと、心の中で直美は何度も思った。


「じゃ、行こう」

「ええ、・・・。それに、子どもは小さいときに亡くなることが多いから・・」

ルリの言葉に直美は、― この女、朱鳥ちゃんを殺すきなんだ。まだ生まれたばかりの…、なんの力もない赤ちゃんの朱鳥ちゃんを殺すきなんだ…。ー と直感した。

その瞬間、直美の身体からヘナヘナと力が抜けそうになった。でも、ここで二人に見つかるわけにはいかない。直美は必死に、今はダメ、しっかりしろ私と倒れそうになる自分を励ました。


「おいおい、そんな物騒な事は口に出すな。心で止めておけよ。怪しまれたら元もこもないんだからな、いいな、」

「ええ、分かったわ。あんた、しつこい、」

二人は、またガラガラと引き戸を開けて出て行った。


直美は、両手で口を押さえたままガタガタと小さく震えていた。

―やっぱり、そうだったんだ・・―

 直美の胸にはいいようのない怒りと悲しみが渦巻きだしてきたと同時に涙が湧き上がるけど、ここで泣いては課長や葉月にどうしたのかと聞かれる。

だが、いまここで直美が見たこと、聞いたことを正直に話したところで信じてもらえるかどうかは分からない。

たとえ課長や葉月に信じてもらったからといって、直美の話が真実だということを確かめるすべがない。そうなれが多分、状況はなにも変わらないだろう。

いや、逆に番頭の山下とルリの企みを、直美が知ってしまったということが二人にばれてしまい、もっと悪い状況になるかもしれない。


― それはダメ、こうなったら私が二人を守るしかない。それしかないんだ。― と、直美は自分に誓った。

だから直美は、必死になって泣くまいと湧き上がる想いを、涙を抑えた。




怜香が妊娠してから、おかしなことが起こり始めた。

なぜか、怜香の行くところで床が濡れて滑りそうになったり。

物が落ちていたりと・・。

うっかり踏んでしまって普通の人にはどうでも無いことでも、お腹の大きな妊婦なら転んでしまいそうな物が落ちている。


一度など、大きなお腹で目の前というか真下がよく見えない怜香が、後ろにのけぞるようにして転びかけたことがあった。

その時は、たまたま直美が近くにいたので走って後ろから怜香を支えたのだ。直美は、このとき目の端で何か黄色い物が庭の方に飛んでいったように思えた。後から気になって探してみると、およそ一楽には無いもの・・。

黄色のビニールで出来た小さなおもちゃのアヒルちゃんだった。


―どうして?こんなものが・・ここに、―

直美は心の中でそう呟きながら首をかしげた。

もしかしたら誰かが、これから生まれてくる怜香の子どものために買ったものを、たまたま、偶然、落としたのだろうか…とも直美は考えた。


―いいえ、そんなはずはない。いくらなんでもこんなおもちゃ。お祝いにあげようなどと・・ふざけてる。―

でも、もし、そうだとしたら・・、余程親しい間柄の人間なら考えられるかもしれない。


―孝ちゃん・・、もしかして孝ちゃんが?―

孝一が出先で思わず、店先で見つけて可愛いからと衝動買いしてしまった。


―考えられないことはない・・わね・・。で、落としちゃった。ー

確かに、これが落ちていたのは店から母屋に抜ける廊下だ。


―そうかもしれない。孝ちゃんかもしれない・・。ー

でも、もしそうなら悪気は無かったにしろ、これは危ないことだ。

危険なことだ。

注意しなければいけないと、直美は直ぐに事の次第を確かめようと黄色い小さなアヒルのおもちゃを孝一のところに持って行った。

そして…、


「若旦那、これ…、これは若旦那が落としたんですか?」

直美は出来るだけゆっくりと喋りながら、オモチャのアヒルちゃんを孝一の目の前に出して見せた。

「えっ?」

玄関の土間でほうきを持ち屈んで掃除をしていた孝一は、不思議そうな目をして顔をあげると、直美の手のひらにある黄色いアヒルを見た。そして、「あっ、可愛いね。牧原さん、これ?どうしたの?」と孝一は無邪気に笑った。



その瞬間だった。

直美の中で、咲江の言葉と、全然なんの繋がりも関係もないように思える黄色のアヒルちゃんが仲良く手を取りだしたように思えた。


―嫌な、予感・・がする―

身体は直ぐに反応した。何とも言えない冷たくて嫌な寒気が素早く直美の背筋に走った。


そう、あれは三日前まえの・・。

怜香の好きな、板長の卵焼きと大根煮の・・、大根煮が変な匂いをさせていたことだった。


その日、直美は、お腹の調子がどういうわけか今ひとつ良くなかった。夕べも食欲が無くて殆ど食べてはいなかったのだが・・。

― 一食抜いたくらいで死にはしない。子どもの頃はお腹を空かせて寝ることなんか、しょっちゅうだったじゃ無い。食べたくなくて、ご飯を抜くなんて贅沢なことよー

と、その日の朝食も抜いていた。

それよりも、食べたことでこれ以上悪くなることを避けたかった。ここ何日か忙しかったから身体のなかも疲れたのかもしれない。

それなら早く治るためにも一食食べることをやめて、胃を休めた方がいいと直美は単純に考えていたからだ。


その日の朝十時過ぎに・・。

急に怜香が、板長の大根煮と卵焼きが食べたいと言い出した。直美がそれを伝えに板場に走ると・・。

「仕方ねぇーなぁー。赤ん坊が欲しがってんだな!」と、口では大げさに文句を言いながら板長は嬉しそうな顔をした。


「出来上がる頃に来ます」

「おぅ!ナオちゃん。そうしてくんねぇー」

板長の嬉しげな威勢のいい声を背中に聞いて、直美は安心して茶室へと走った。今日は大事なお客様が来る。その準備の為に、これから大女将の手伝いをするのだ。

茶室で大女将の手伝いをしながら直美は、今日は朝から身体が幾つあっても足りない・・と思っていた。


「あっ!いけない。大女将、私、若女将の大根煮と卵焼き運びにいってきます」

直美は慌ててそう言うと立ち上がった。

「あら、そうね。そういてあげて頂戴。ありがとう、直美さん」

大女将の満面の笑みに見送られて直美は大急ぎで茶室を出た。

そして母屋の裏庭を急いでぐるりと回り、手前の石段を二つ上がると母屋台所前の廊下に出る戸を開けた。


直美はクルリと後ろを向いて履き物を丁寧にそろえて置くと、急いで板場に向けて小走りした。そして母屋と店の境界線にある引き戸を開けた途端、勢いで立ち止まって何かしているルリと真正面からぶつかった。


―しまった、暖簾で人影が・・、―

そして、ルリが手にしていた料理を直美はまともに頭からかぶってしまった。


―なに?この匂い!―

直美は咄嗟にルリを睨んだ。その瞳に、ルリが一瞬恐怖したように身体をビクンと小さく跳ね上げてひるむ。

そして、よく見ると廊下にぶちまけられた料理は・・。


―卵焼きと、大根煮・・。怜香さんの・・、でもこの匂い。おかしい・・―

「なにしてるの!」と、怒鳴る葉月の声が後ろから響く。

「こぉ、この子が急に飛び出してくるから!」

ルリが葉月に向かって叫んでいる。

だか直美は、にらみつけた目をルリから離さない。その様子にいぶかる葉月の目も何か疑うようにルリを見だした。


「もう、いいわ。ここは私が片付けるから、あんたは着替えてきなさいよ」と、怒ったルリが直美に吐き捨てるように言い。

まるで、ぶちまけられた料理を隠すようにかき集め出している。


「直美さん、着替えに行きましょう」

葉月が静かな声で直美を諭した。直美は黙って頷き。それでもルリから目を離そうとしない・・、無言の抗議のようだ。


「さぁ、はやく!」

「はい」

ルリから目を離さず、直美は葉月にそう返事して立ち上がった。だがルリは二人の会話も、二人の姿も無視するように動いている。すると、どこからか現れた番頭がバケツと雑巾を用意して無言で立っていた。


―用意のいい・・―

番頭の姿を見た直美の心が呟く・・。怪しい、怪しい・・と、小さく呟き身体が硬く止まってしまう。

「もう、この子が余計な仕事増やすから・・」

ヘンにさっきとは違って安心したようなルリの甘える声が響いた。だが番頭はルリの声には答えず黙って屈むと濡れた廊下を拭きだした。

直美は身を固くしてその姿を、そのどれをも見落とすまいと凝視していた。


・・が、・・

「なんでぇ、俺の料理が台無しじゃねぇかぁ!」

板長の威勢のいい声に直美は我に返った。

「すみません、板長」

直美は、自分の目の前に現れた板長に反射的に身体を九十度折って謝った。

「いいってことよ。急がせた俺も悪かったんだ。直ぐ作り直してやる。ナオちゃんは早く着替えてきな」

「はい、ありがとうございます」

さぁ、というように直美の背中を軽く押す葉月に頭を下げて、その場を後にした。



―多分、お腹が空っぽの私にしか・・。あの匂いは分からないくらい弱い匂いだったんだ・・―

微かなその匂いは、なにか、草木などを煮詰めた時に出る独特の匂いに似ていたような気がする。


―なんだろう・・。何かの薬だろうか・・―

店の廊下を小走りしながら直美は考えた。

それから歩いて5分の所に店が借りてくれている、自分の部屋に大急ぎで帰った直美は、何とも言えない気持ち悪さが残る不安な心を押し殺して、煮汁で濡れた髪の毛をシャワーで洗い流し手早く着替えて大急ぎで店にとって返した。そして、一目散に脇目も振らずに板場へと走る。

丁度いい具合に他の板さんたちの姿は見えない。


―よかったぁー、他の人がいなくて・・―

そして、直美がぶちまけた代わりの卵焼きと大根煮を用意してくれていた板長に、周りに気づかれないように、そっと耳打ちした。

〝これからは、私以外の誰にも、若女将の、怜香さんの口に入るものを運ばせないでください。〟と必死の思いを自分の声に託した。

板長は、一瞬驚いた顔をしたが・・、腕を組んで黙って考え込み。

やがて・・。

「ああ、分かった」と、ぶっきらぼうに答えてくれた。


次に直美は、葉月に頼んで怜香が出産するまでの間、母屋の一室に、出来れば怜香たちの部屋に近いところに寝泊まり出来るようにと大女将に頼んでもらった。

このとき葉月は、直美の申し入れの理由を何も聞きはしなかった。直美も、それ以上のことは何も言わなかった。



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