第二章 佐伯怜香   (六十二)

それは、朱鳥が無事に生まれた日に起こった。その日、店はお休みだったが…、一楽は朝から上を下への大騒動だった。

その前の日の夕暮れ時から怜香が産気づき、女将も、孝一も地に足がついていないという言葉がぴったりの状態だった。


だから明け方近くに無事に生まれたと聞いたときは、ほっとした。でも、それからが大変だった。

母屋には病院から帰ってきた怜香の両親と兄嫁。

大女将の弟である直美のかつての上司、課長夫婦が訪れ、それ以外の親戚も訪れていた。だから一楽の母屋は大変な賑わいだった。


直美は葉月と一緒に夕べから店に泊まり込んでいた。

そして今朝も朝早くから母屋の台所で、一楽の身内に出すお茶の用意をしていた。それが終われば、〝皆さんの朝ご飯の用意をするから〟と直美は葉月に言われていた。


「ねえ、ナオちゃん、前々から聞こうと思ってたんだけど、その珊瑚の髪飾り、よっぽど気に入ってるのね。いつもしてるじゃない?」と突然思い出したようにお茶と入る手を止めた葉月が、直美のきれいにまとめられた髪に赤い小さな玉が一列に並んだ珊瑚の髪飾りについて聞いて来た。

「はい、気にいってます。私の一番大事なものです。一番大事なものは肌身離さず持っているのが一番良いんです。おばあちゃんもそう言ってました。だから死んでも離しません」と直美が少しおどけながら、でも嬉しそうに葉月に向けてこたえる。

すると葉月の目が一瞬キラリと光って…、

「あら、やだ。随分と大袈裟ね、さては、いい人からの贈り物?誰?いいなさいよ!ナオ坊」と葉月は急に直美を子ども扱いしだした。

と・・そこに、大女将の弟で直美の元上司の忠明が台所に入ってきた。


「ああ、牧原くん。すまんが座布団が足りないんだ。店の方から余っている分を持ってきてくれないか?」

「はい、課長!」

直美は、そう素早く答えてテーブル向かいにいる葉月に〝いってきます〟の気持ちで軽く頭を下げる。葉月は忙しげに手を動かしながら〝分かったわ〟と目で合図してくれた。


直美が母屋の台所を出て右手に曲がり、目の前に見える紺色の暖簾がかかった格子の引き戸を開けて真っ直ぐに板場へと続く廊下を進んだ。

そして、廊下を挟んで板場の前にある、店の備品が置いているガラス格子の引き戸を開けて中に入った。

入り口直ぐは仲居達の休憩所になっていて畳みが引かれている6帖ほどの部屋だ。その奥の襖を開けると棚三台が並び、箱に入った季節の漆器類を手前に、真ん中には陶器の食器類。それから一番奥の棚に季節行事に使われるものが置かれている。


直美は棚をすり抜けるように奥へと進み、座布団が置いてある一番奥に置かれた棚の向かい側にある押し入れの戸を手早く開けた。そして手前に置いてある座布団を手に取った。と、さっきほど直美が閉めたはずのガラス格子の入り口引き戸が・・、いきなりガラガラと大きな音をたてて開く音が聞こえた。


―誰?こんなに朝早く?・・板長?・・―

夕べ、もし何か手伝うことがあったら直ぐに連絡してくれと言って帰ったから・・?・・かと思いつつ、


―葉月さんが連絡したんだろうか?皆さんの朝ご飯の為に?―

いや、そんなことは無い。今日は板長の娘さんの大事な日だ。朝ご飯くらい直美と葉月の二人で十分だ。


―じゃ、誰?―

そう思いながらも直美の身体は無意識に隠れた。三番目の棚の隅に身を小さくして蹲ると・・。棚に置かれた物と物の隙間から目をこらして入り口の方を見た。


入ってきたのは男女一人ずつ、番頭の山下とルリの二人だ。

二人は奥の襖が開いていることも気にせずに、畳の上を小さくすりながら歩き、開いた襖の前まで進んでくると素早く襖の影に隠れるように中に入ってきた。そして二人は小さく固まるように向かい合って立った。

その二人の何とも言えない不自然な姿と、醸し出す嫌な雰囲気がどうも直美にはしっくりとこない・・。気持ちが悪いと言った方が良いかもしれない。

だから自然胸のあたりがざわざわと落ち着きを無くす。

そして、―でも、なぜ?―と直美の心は二人に向かい小さく呟いた。それと同時に身体が緊張して硬くなるのが自分でも分かった。そして、二人の囁き合う声が聞こえて来た。

「生まれちゃったじゃない」とルリが拗ねたように言い、「仕方ないさ・・」と番頭の山下がこたえている。

「なによ!私が女将になる話はどうなるのよ!女将にしてやるって言ったじゃない」

「ああ、分かっている。まぁ、待て、そうポンポン言うなよ」

「知らない!」

「機嫌直せよ、なぁ、なぁ、」

二人は直美のいることなど気がついていないらしく、納戸の中で抱き合い唇と唇を合わせだした。


―気持ち悪いー

直美は、その姿を見るなり寒気と吐き気に襲われて、咄嗟に片手で口を強く押さえた。そして、もう一方の手で自分の身体を強く抱いた。



「まぁ・・、咲江さんの言うとおりだった訳ね」

直美の告白に理恵の呆れた声が思わずもれた。

「はい、そうです」

直美は、そう言って理恵の目を見て深く頷いた。

が、その後に言った二人の言葉は理恵にも言わなかった。言えば理恵が余計に心配するから、だから、その後の二人の会話の内容のことは言えなかった。

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