第二章 佐伯怜香 (六十)
二人はその後・・、黙ったままで理恵の自宅兼サロンに到着した。直美は車から無言で降りる。理恵もあえて声はかけなかった。
玄関ドアを開けると例のごとくチャロのお出迎えだ。ここで、やっと直美の顔に笑顔が戻った。どうやらまたチャロが、気まずさの種を拾い、食べてくれたようだ。
足元にクルクルとまとわりつくチャロとともに、理恵の案内で直美は二階にある理恵のアロマサロンに足を一歩踏み入れた。
―落ち着いた空間ー
直美は、足を踏み入れた部屋をクルリと見回してそう思った。それから窓際のソファに腰掛ける。チャロは直美が気に入ったようで、 直美の足元にゆっくりと寝そべった。
「チャロは直美さんが気に入ったみたいね」と理恵が笑いながら言った。
「はい、私、なぜか昔から動物には好かれるんです」とこたえる直美も笑顔になっている。
「動物は、正直だから外見に騙されないのよ」
理恵の言葉には答えず。直美はチャロを見て笑っていた。
そして、にこやかな笑顔のままで直美は理恵に向けて話し出した。
「私、理恵さんも怜香さんか聞いてご存じだと思いますが、弟と二人でおばあちゃんに育てられたんです」
理恵は頷いた。
「だから、贅沢は出来ませんでした。でも、おばあちゃんは、古くても綺麗に洗濯して、きちんとアイロンをかけていればなんにも恥じることは無い・・って、いつも私達に笑って話してくれました」
「立派な考えね」
「はい、そう思います。でも、現実は酷です。人と同じものを、新しいものを持っては行けない時もありました。そして、それをはやし立てる子や、あからさまにバカにする子もいました」
「そうね、子どもは時として大人が思う以上に残酷になるときがあるから・・」
「ええ、でも私、負けていませんでした。〝それがどうしたの?あなたに何か迷惑かけてる?見たくなきゃ見なくていいじゃない。私も、あなたのことなんか見ない〟って・・。口だけは負けるかって踏ん張っていたんです」
「強いわね、直美さんは、でも、そんなこと言ったら一人で仲間はずれにならなかった?」
「はい、クラス替えの初めはいつも一人でした。でも、そのうち二、三人ですが、友達も出来て…。私が強気で完璧無視するから・・。いつの間にか、なにも言われなくなりました。それに、先生のお手伝いは率先してやるようにしていましたから・・」
―自分を守る為に・・ね・・―と、理恵は無言で微笑みながら、直美の想いに心の中で答えていた。
「それより、理恵さん。私のことよりも怜香さんです。怜香さんの方が心配なんです」
「そのことだけど、どう?心配なのかしら・・。でも、ちょっと待っていてね。今お茶を入れてくるから」
「はい」
直美の返事を聞きながら、理恵はいったんサロンルームを出てキッチンへと向かった。チャロが素早く後を追いかけてくる。
リビングダイニングの戸をスライドさせて開けるとチャロが先に入り、テレビの前でウロウロしている。
理恵はあえてチャロのことは気にしないで、日本茶を入れだした。昨日、知り合いから所沢の美味しい餅入り最中を頂いていたので、直美と一緒に食べよと取っておいたのだ。
やがて部屋中に緑茶の甘い香りが漂い出す。思わず理恵は大きく深呼吸した。
「さぁ、チャロちゃん。戻るわよ。それとも、あなたはここにいる?」
チャロは不思議そうに理恵を見た。それから理恵の言うことが分かるのか、素早い身のこなしで廊下に出ると、首をもたげて後ろを振り返り、理恵が自分について来ているか確かめているようだ。
理恵の姿を見るとチャロは、二階へ向かう階段をスルリと上がり早く開けてくれというようにドアの前で待っていた。
「この最中、美味しい!」
「そうでしょう。昨日頂いて全部食べてしまわないように、直美さんの分を取って置いたのよ。一緒に食べようと思ってね」
「嬉しい。ありがとうございます。理恵さん」
直美は食べかけの最中を口元前で持ったまま、嬉しそうに目を細めて理恵を見た。
「ところで、さっきの話の続きだけど・・。どういう風に怜香さんが心配なの?」
「実はですね」
そう言って、直美は手にした食べかけの最中を一旦皿に戻すと、口元を軽く指で押さえてから話し出した。
孝一の父親、亡くなった一楽の旦那だが下に妹が二人いた。
一人は海外に嫁いでいるので滅多に日本に帰っては来ない。夫が外国人ということもあってか、相続の方も自分達には関係ないことと。むしろ、後に残った交通事故で後遺症の残る孝一のことを、我が子のように心配して気遣いを見せてくれたらしい。
だが、日本にいる真ん中の妹は、兄の葬儀の最中にも関わらず。
「兄さんがいなくなったんなら。私が一楽の後を継ぐ、もともと一楽は私のものなんだから」と親戚中の前で言い放ったらしい。
流石にそれは筋が違う。それに、一楽には孝一がいる。何を言っているのだと親戚一同からなだめられた。
・・が、この妹。
「一楽の跡継ぎは孝一だ」と、孝一のことを叔父からきつく諭された時に、「もう死ぬかもしれない子どもに何が出来るの!」と言ってしまったものだから・・。
その場が凍り付いた。
その当時、確かに孝一は病院の集中治療室で生きるか死ぬかの境をさまよっていたからだ。
だが、この一言に、これには世間体を気にする妹の夫が激怒して自分の妻の顔をその場で張り倒した。
その瞬間、故人を惜しむ精進落としの場は、この妹の不満の言葉と泣き叫ぶ声に修羅場とかしていた。
夫を失い。
娘を失い。
そして、たった一人残った息子を、いま失いかけるかもしれない中、必死に踏ん張って堪えていた妻であり母である美也にとっては、この上なく迷惑な義妹のしでかした出来事だったらしい。
だが、美也は負けてはいなかった。
泣き叫ぶこの妹の前に静かに正座すると・・。
「一楽は亡くなった主人であり、私の夫である隆明の命です。その命は妻である私が守ります。そして、その主人が命かけて助けた孝一に継がせます。兄を亡くして妹として悲しいのは仕方がありません。が、これ以上、孝一の不幸を願うようなら、この場限りで縁を切らせて頂きます」とはっきり言い切った。
「義姉さん、すみません。僕からよく言って聞かせます」
「ああ、わしからも言って聞かせる。美也さん、すまんなぁ・・」
慌てた妹の夫である
「ひどい話ね。いくらお兄さんが亡くなって気が動転しているからって、まさか自分の甥の不 幸を願うようないいかをするなんて・・。お行儀が悪すぎるわね」と言いながら理恵が眉を寄せた。
「ええ、でもそれだけじゃ無かったらしいんです」
そう話す直美の顔は、あきらかに怒っていた。
「まだ?あるの?」
「はい、その後も〝一楽は私が継ぐ〟と、しつこいくらいに大女将に電話をかけてきたり。退院した若旦那に、見舞いだと言いながら一楽にこっそりやってきて、若旦那しか居ないのを確かめてから、〝あら、まだ生きていたの?ムダよ、そんなことしても、あんたの足は治りゃしないんだから。〟と酷いこと言ったりしていたらしいんです。でも、その時、たまたま、それを聞いた板長が怒ってスゴいことになったらしいです」
理恵の顔が呆れて後ろに反れた。だが一体?どんなスゴいことになったのだろうか・・とも思う。
直美は、理恵の心の声が聞こえたのか・・。
「板長、板場にとって返して包丁を持ちだしてきて、その妹さんを〝この!鬼婆ぁー〟て追いかけ回したそうです。でも、当時の番頭さん。今の番頭さんのお父さんが、その場に入って止めてくれたので大事には至らなかったそうですが。怒り心頭の板長は、先代の娘さんである亡くなった旦那の妹さんに向けて・・。〝今度、その顔を見かけたら本当に殺すぞ!〟って、それはスゴかったらしいです」
「でも、その気持ち・・、分からないでもないわね」
「ええ、確かに・・、板長も、よっぽど腹に据えかねたんだと思います。それに、はっきり言って、それ以来、その妹さんは一楽には出入り禁止状態だそうです」
ここで、直美は一旦置いた最中を手に取り一口、二口と食べた。それからお茶を一口飲んで湯飲み茶碗を茶托に置くと・・。
また、話し出す。
「この話、仲居頭の葉月さんと同じくらい一楽にいる、古い仲居さんの
「そう、それは良かったわね」
理恵の顔が輝く。
「はい、葉月さんの言うとおりでした」
思わず顔を見合わせて笑い声を上げる二人に、直美の足元で丸くなっていたチャロが不思議そうな目をして顔をもたげていた。
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