第二章 佐伯怜香 (五十九)
「朱鳥(あすか)・・、佐伯朱鳥」
「ええ、美人さんの名前よ。但し、怜香さん。さっきも言ったけど、くれぐれも気をつけてね」
「はい、わかりました。任せてください」
怜香は理恵の顔を見て微笑むと自信たっぷりに応えた。
部屋に帰り・・。
怜香は、理恵から「朱鳥(あすか)」の名前についての良いところと、これから注意しなければいけないことを聞かされた。
だが喜ぶ怜香とは反対に、理恵が怜香にする話を、よこでじっと何も言わず聞いていた直美の顔は不安そうだった。
それから理恵は、急に無口になった直美と二人で病院をでた。
その間、なにか考え込んで無口になった直美のことを、どうしたものかと心配しながらもエレベーターに乗り込んだ理恵は、直美が話すまで待とうと心に決めてなにも聞きはしなかった。
そして、一階玄関を出て二三歩歩いたところで急に直美が立ち止まり…、
「あの、理恵さん。今度のお休みに、理恵さんのところでアロママッサージをしていただけますか?」と唐突に直美が言い出した。
「ええ、それは構わないけど、どうして?」
理恵は思わず自分の素直な気持ちを言葉にしていた。
「前々から行ってみたかったんです。それに、この頃、肩がこって仕方なくて・・」と言いながら直美は軽く眉間にシワを寄せて小首をかしげている。
「まぁ、それはいけないわね。いいわよ、直美さんならいつでも歓迎だから」と理恵は笑って返事した。
―きっと、私に何か話したことがあるのねー
と、理恵はなんとはなしに直美の気持ちを察した。
「ありがとうございます。じゃ、よろしくお願いします。時間はまた後で電話していいですか?」
「ええ、構わないわよ」
「それじゃ、私は、仕事があるので・・ここで」
「そうね、これからが忙しい時間になるものね」
「はい、失礼します」
「ええ、電話、待っているわ」
直美は、返事の代わりに微笑んで着物の裾をパタパタさせて小走りに駆けていった。
その後ろ姿をみながら、〝なにか、話したいことがあるのね・・。きっと〟と、理恵はこのとき直美の思いを軽く考えていた。
約束通り早朝高尾駅に現れた直美をみて理恵が車の中から手を振る。直美がそれに気がつき大きく手を振り返し、にこやかな笑顔で小走りしながらこちらに向けてかけて来た。
先週会った直美の落ち着いた着物姿とは一変して裾を何段か折り、細い足首が見える白のデニムパンツに薄いグレーのタートル。その上に、やや光沢がある柔らかなピンク色をしたニットの前開きブルオーバーを羽織っている。
デニムパンツと同じ色に合わせた足元のタッセル付き白のローファーと、肩にかけた大ぶりの赤いバックが可愛らしい。
今日の直美は、今にもはじけて飛んでいきそうなくらいに元気な服装だ。
「お待たせしました。すみません、電車一本遅れちゃって・・」
「いいのよ。それより、お腹空いてない?」
「大丈夫です」
「そう、朝が早かったからどうかと思って・・」
理恵の言葉に、ドアをあけ素早く助手席に滑り込んで座ると、手早くシートベルトを締めながら直美は心配いりませんというように笑った。
そしてすぐに理恵の運転で、自宅兼サロンへと向かう。ここで思い切って理恵は直美に声をかけてみた。
「ねぇ、直美さん。今日、私のところに来たのは、何か・・怜香さんのことか、朱鳥ちゃんのことで・・。或いは両方かもしてないけど、話があるんじゃないのかしら?なんて思ったんだけど、私の心配しすぎかしらね」
「・・・・・」
直美の返事はない。
いらぬことを言ってしまったかと理恵は慌てて、「あっ、ごめんなさい。私の早とちりだったのかしら・・」と言ってみた。
すると、暫しの沈黙にあと…。
「いえ、そうじゃないんです」
「じゃ、そうだということ?」
「はい」
「そう、まだ、少し家に着くまでには時間がかかるから、良かったら話してくれない?」
「はい、実は、私・・。理恵さんが、朱鳥ちゃんの名前のことで怜香さんに話しているのを聞いて、ちょっと心配になったんです」
「あの、3年という約束のこと?」
「はい、そうです。」
「どう?心配になったの?」
理恵は、怜香がこだわった「あすか」という名前を、子どもにつけることに対して怜香自身に固く約束させたことがあった。
これは怜香にあったときから危惧していたことだが、その時は、まだそれほど心配はしていなかった。
―姓名判断は、統計学・・―
だから理恵はそのことを思い、頭の隅に押しやっていたのだが、怜香が子どもの名前に「あすか」の響きにこだわったことで、理恵も黙っているわけにはいかなくなった。
「あれは、本当なんですか?理恵さん」
直美の声が、いつになく真剣みを帯びている。目線は真っ直ぐ運転する理恵の横顔を捕らえていた。
「ええ、総合的に判断した結果の答えよ」
「そうですか・・・」
「でも、どうして?そんなに心配なの?怜香さんが信用出来ない?」
「いえ、そうじゃないんです。怜香さんは心配ないと思います。ただ、少し無理をしてしまうことはあるかもしれませんが。それは、私が横についてサポートします」と直美は言い切った。だが理恵には、直美のそのあまりにきつく言い切った勢いが気になった。
「そう、なら?何が心配なのかしら?」
「人です」と直美はあっさりと言う。
「人?」と驚いた理恵が聞き返す。
そして、チラリと横目で直美を見た理恵の目に、本当に、これ以上は無いくらいの、真剣な目の直美が目線を反らすこと無く深く頷いた。
「どういうこと?」
そう言いながら、理恵の胸の奥にイヤな思いがわき上がる。
「実は、仲居頭の葉月さんが、私が一楽で働く時に言ったんです。ここには敵もいる。若旦那と怜香さんの結婚を快く思ってない人達がいる。だから私に対しても、余計なことをしたと思っている人がいるって教えてくれたんです。それで私、誰ですか?って葉月さんに聞きました。でも、葉月さんは自分の目で確かめなさいと言いました」
―どういうこと・・―
今度は、理恵の方が驚く番だった。直美は理恵の次の言葉を待っている。
「それで、誰か分かったの?」
「はい、分かりました。」
「誰なの?」
理恵の頭の中に、一楽に勤める人たちの顔が次々に浮かぶ。
「亡くなった旦那の妹さんと、つまりは若旦那の叔母さんです。その妹さんに甘いこと言われて迷っている、先代の番頭さんの息子、山下さん。今の番頭さんです。それと、番頭さんと・・、多分、付き合っている。バツイチ子持ちのルリさんの三人です」
「三人も・・」
「はい、初めルリさんは私のこと徹底的に無視しました。でも、それは仕方ないとだと思いました。他の人も、多かれ少なかれルリさんほどでは無かったけど・・」
「無視された」
「はい、でも一楽で働く以上、それも覚悟でしたし…。意地悪されるのは子どもの頃から慣れていますから、私」
直美は明るくそう言って笑ったが、理恵はそれに応えて笑う気にはなれなかった。逆に、ハンドルを握る手に力がはいる。
「苦労したのね・・」
理恵の口が本音をポツリと呟いた。車内は急に・・、人の気配を消して静まりかえる。直美は真っ直ぐ前を睨んでいた。
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