第二章 佐伯怜香 (五十七)
秋の気配が深まりだした十一月十日。
怜香は多望の赤ちゃん、女の子を出産した。理恵はその日の朝、孝一から嬉しさに弾んだ声の電話をもらっていたが、当日は怜香も疲れているだろうからと見舞いは遠慮した。
それから二日たってから理恵は、怜香が入院する病院に出かけた。
勿論、怜香に頼まれていたことと可愛い赤ちゃんを一目見るためだ。
怜香が入院する病院は一楽から徒歩圏内にあった。孝一もここで生まれたと聞いている。 今は二代目先生が病院の医院長を務めていると聞いた。
大きな建物は女性や子どもに安心感を与えるためだろう、淡いピンクの外壁に、入り口は円形の柱を使い、全体的に丸みを帯びた印象を与えていた。勿論、綺麗に磨かれて清潔感が漂っている。
―杉山産婦人科。綺麗な・・女性らしい印象の病院ねー
理恵は入り口のガラス扉の少し前に立ち、三階建ての建物を見上げた。怜香の部屋は三階の端部屋だと聞いている。
理恵が目線を目の前のガラス扉に戻し、中に入ろうと足を一歩前に出しかけたときに後ろから呼び止められた。
「理恵さん」
振り返った理恵の目に飛び込んで来たのは、赤地に細かな格子柄の小紋をきりりと着こなした和服姿の直美だった。
「あら、直美さん。あなたも怜香さんのお見舞い?」
「あっ、いえ、若女将が、うちの板長の大根煮と卵焼きが食べたいとおっしゃるので・・」
と手にした朱色の布に包まれた小さな包みを遠慮がちに、理恵にも見て分かるようにと少し持ち上げた。
「あら、でも、ここでも食事は出るでしょう?確か、フランス料理のフルコースじゃ無かった?」
「ええ、そうなんですけど。洋食もたまにはいいけど・・。毎日はダメみたいです。勿論、和食も選べるんですけど・・〝やっぱり、うちの板長が作る大根煮と卵焼きのご飯が食べたいわ〟っておしゃって・・」
「まぁ、すっかり一楽の若女将になってしまったのね。怜香さん」
「はい、それに・・」
と直美が思いだし笑いをしてクスクス楽しそうに笑い出した。
「どうかした?」
「それが、若旦那が・・」
「孝一さんが、どうかしたの?」
「今日もなんですけど、〝怜香さんは、赤ちゃんにお乳をあげないといけないんだ。だから板長、栄養があって、美味しくてだよ〟って、板長の後をついて回るもんだから・・。怒られていました。〝若旦那、そんなに直ぐ後ろをついて歩かれちゃ、美味しいもんも、できゃーせんでしょーが。さぁ、どいた、どいた。若旦那、邪魔ですぜ!〟て」
「まぁー」
そう話す直美の笑顔は、もうすっかり一楽の仲居さんだ。
言葉遣いも板についている。きっとこの何ヶ月の間相当な努力をしてきたのだろうと理恵は思った。
そして腰を低くして、遠慮がちに理恵の後ろにつく直美と二人、自動のガラス扉をくくって中に入ると、明るいオフホワイトで統一された建物内の清潔感が漂う広いエントランス部分には、入り口正面に受付と、その右手隣に白い背もたれのないソファが二列、広々と置かれている。
壁の本棚には妊婦さん用の本と、連れてこられた子ども達用の絵本が仲良くオープンにディスプレイされて置かれていた。
その間をまっすぐ行くと診療室だ。いまも目の前で、お腹の大きな妊婦さんがドアを開けて中に入っていった。
その後ろを、淡いピンクの制服を着た若い女性の看護師が慌てて奥の通路へと消えていく。
左手奥にはエレベーターが見える。
どうやら、そこから病室にいけるようだ。直美は受付の年配の看護師に笑顔で頭を下げた。向こうも同じように、にこやかに頭を軽く下げている。
きっと何度もここを訪れる直美と彼女は、顔見知りになったのだろう。そんな姿に理恵は微笑ましくなってしまい。顔が緩む。
「どうかしましたか?理恵さん」
「いえ、直美さんも、とうとう一楽の人になったなぁーと思って」
「えっ!本当ですか?」
「自分では気がつかなかった?」
「はい」
「そう、でも、それがいいのかもしれないわね」
「えっ?」
「分からない?」
「はい」
「なら、それがいいのよ。自然にそうなっていた。人の目にもそう見えていた。それが一番いい馴染み方なんじゃないかしら。よく頑張ったわね。ここまで・・、これはスゴいことよ、直美さん」
「・・・・・」
直美の可愛らしい大きな目に薄らと涙が膨らんでいた。ふっくらとした頬が今にも歪みそうだ。直美は咄嗟に下を向いた。
理恵の右手が遠慮がちに直美の肩に優しく触れると、下を向いた直美の顔から、ぽとりと一粒・・、床に落ちて直美の足元に小さな、小さな、見落としてしまうくらい小さな涙の点が出来ていた。
―辛かったのね。無理も無いわ・・―
理恵の手に、ほんの少し力が入る。
物言わぬ理恵の手の温かさを、直美の身体が、そのぬくもりを受け入れたように空気が柔らんでいく。
「ありがとうございます。」
直美は、小さく絞り出すような声を出し深々と頭を下げた。理恵は、そっと肩から背中に手を回し…。
「さぁ、天使の顔を見に行きますか!」
理恵の明るい声に応えようと、直美はそっと目尻の涙を指で拭い、「はい」と満面の笑みで明るく返事した。
その返事に応えるように、丁度いいタイミングでエレベーターの扉がチンと小さな音を立てて開いたので・・。
二人は思わず顔を見合わせ吹き出すと・・、幸せそうに互いの目を見つめて小さく笑い合っていた。
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