第二章 佐伯怜香   (五十五)


「あんた、さっきみたいに褒められたからって、図にのるんじゃないわよ」と仲居頭の葉月が低い声で直美に言った。

「え?」と言って、直美は葉月の顔をまじまじと見る。


「ここは料亭、表は華やかだ。でもね、裏はドロドロした人間模様が渦巻いてるんだ。板長は中学出てからこの一楽で、前の・・。あんたも若旦那から話を聞いて知っていると思うけど、亡くなった旦那からみっちり仕込まれたんだ。だから、ここしか知らない。その分、純粋さ。だから、あんたのことも、あれが芝居で、若旦那の為にしてくれたことだと喜んで、あんたのことを心で許して受け入れた。分かるね?」

「はい」

「でもね、世の中そんなに甘く無い。あんたもよく知っていると思うけどね。うちの若旦那や板長みたいに純粋な気持ちの男や、大女将や若女将みたいに出来た人がゴロゴロそこいらにいるわけじゃない。それもわかってるよね」


 ここで、葉月は言葉を切ると睨むように直美を見た。直美は葉月の目を見据えて深く頷く。


―いけ好かない人間なんて・・、いくらだっている。ーと、直美は心の中で葉月に答えた。

葉月もまた、そんな直美を見て頷いた。


「だからね、あんたのことを喜んで迎えてくれる人間もいれば、余計なことをしゃがって・・と思う人間もいる。それにね、いったん嫌いになった人間を、あれは間違いでしたと言われても。はい、そうですか、分かりました仲よくしましょうと直ぐに許せるかは、人間、なかなか出来ないものさ。正直に言うと私もその一人だよ。大女将から話を聞いて、あんたのやったことの訳は納得出来た。だから、あんたに感謝もしているよ。だけどね、気持ちがいったん嫌いだって方向に行っちゃってるのをさぁ~。それを反対側に持って行くのはなかなかしんどいんだよ」と、ため息をつくように葉月が言う。

 それはそうだろうと葉月の気持ちも分かるので、直美は素直に聞いてみた。どうしたらいいのかと…、


「はい、・・・そうだと思います。私が葉月さんの立場なら同じことを思ったと思います。私、どうすればいいんですか・・」

「そうだね。私も、あんたを好きになるように努めるから。あんたも、わたしが、あんたを好きになるように努めて欲しい。その為にも、今は、あんたを許した人達と、これ見よがしに楽しくして欲しくないんだよ。そうされるとね。何だか自分が心の狭い人間に思えて来て、余計にそれを認めたくないから・・。あんたを悪く思うように気持ちが傾くんだ。それじゃ大女将の顔も立たない。まして幸せな若旦那の顔がくもるかもしれない。私はね、それが一番嫌なんだよ。若旦那には心底幸せでいて欲しいんだ。だから、ね。親しき仲にも礼儀あり・・。これを忘れずにいてほしいんだ」という葉月の顔は真剣だ。


「はい、分かりました」といって直美は大きく頷いた。

 すると、葉月は、「あんたは、どうやら頭がいい子のようだよ。私たちを騙したんだからね。だから今の返事を信じるよ。いいかい、ここには大女将や、若旦那のことを快く思っていない連中もいる・・と、いうことを心にとめておいておくれ」と、直美が考えてもいないことを言い出した。だから、直美は「それは、どういうことですか?」と思わず葉月に聞き返してしまっていた。

 だが、葉月は話しの確信には触れずに、「どういうことも、そういうことだよ。自分の目で確かめればいい。その為にも、味方は作っても、敵はこしらえないようにしないといけないよ。それから仕事は直ぐに覚えること。みんなに、本当に信用されたいなら、それが一番の早道だからね」と早口で言い切った。


 葉月の半ば怒ったような物言いに直美は、これ以上このことを突っ込んで聞いても、葉月は何も話してくれないだろうと思った。だから、直美の心の中でもう一つ引っかかっていたことの方を葉月に聞いてみた。


「はい、分かりました。ありがとうございます。でも、私のこと今は嫌いだといいながら、どうして?そこまで親切に教えてくれるんですか?」

 直美には、葉月が、直美のことを嫌いだと言いながら、自分の気持ちに嘘をつかず、正直に話してくれることが不思議だった。

 葉月の立場なら、嘘をついて直美をいじめることも出来るだろうに…と思ったからだ。


「不思議かい?」

「ええ、不思議です」

 だから、直美も正直にこたえた。

「そうかい。そうだね、一つは大女将から頼まれたこと。大女将は、私にとっては恩人だということ。恩人から頼まれたことを、やらないわけにはいかないからね。それともう一つは、あんたが若旦那の為に悪者になってくれたことへの感謝の意味。そして・・」

「そして?」

 暫しの沈黙のあと、「私も、あんたと同じで、親に捨てられた子だからさ」と葉月はサラリと言ってのけた。


 その言葉に驚いた直美の顔色が変わる。直美は、息を飲んで固まったまま葉月の顔を正面から見据えた。

 年の頃なら六十代手前、丁度、直美の母親より少し上くらい・・。いや、母親だと言っても通じるだろう葉月の、少しシワのある目尻が寂しげに揺れた。

 思わず直美は、喉の奥が締め付けられて息が止まりそうになった。


―今、私・・、凄く、いけない顔をしている。ここで生きて行くと決めたのに・・、情けない顔になっている。嫌だ、どうしょうー

 だが葉月は、軽くその場をあしらうと何事もなかったように「さぁ、ぐずぐずしていたら、あんたが損するよ」といいながら、直美に仕事の段取りをテキパキと話し出していた。



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…名前の一字目に 『こ』 の文字があるあなたへ、


…あなたが幸せになる為への「ひと言アドバイス」 …


☆例え、どんなトラブルにあっても負けずに歯を食いしばり、解決しようと前向きに努力するあなたには、シンの強さが備わっています。

ですから、「まだまだ、これくらい…」と、謙遜せずに、自分で自分の努力を認めて、褒めてあげることが大事☆ 



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