第二章 佐伯怜香 (五十四)
茶室に呼ばれた直美は、大女将からの噛んで含めるような話が終わると、しおれて下を向いていた。だが大女将の、さっきまでのきつい響きの声とは違う優しい声が聞こえて・・。
「話はそれだけ。あとは板場にいって仲居頭の葉月に聞いて頂戴。孝一、つれていっておあげなさい」
「はい、大女将。ヤァ・・、違った。ごめん、母さん。牧原さん、行くよ」
「はい」
直美は、大女将の顔をまともの見ることが出来ずに俯いたまま返事をしていた。
「直美さん、怖いのは誰でも一緒よ。私も、怖いのよ」
俯きながら部屋から出ようとして立ち上がった直美に向けて、優しく語りかけるように言った大女将のその言葉に直美は顔をあげた。目に飛び込んで来たのは大女将の優しい笑顔だった。それは、厳しかったが優しかった祖母の笑顔と重なった。
―泣きたくなるよ、おばあちゃん…、―
その時、直美はそう思った。直美の目から涙がほろりとこぼれた。
「直美さん、辛いのはみんな一緒。泣くのは一人になってからにしなさい。今は自分のすることをきちんとするときです。やるときです。辛くてもね、私もそうして、ここで生きてきたのよ」
大女将の短い言葉に、直美は心があると思った。
この人は夫を亡くし、子どもを亡くし・・、そして、もう一人亡くしそうになったけど負けなかった。
きっと泣き叫びたいことだったと思う。もしかしたら、弱い人なら狂っていたかもしれない。けれど、そうはしなかった。そうはならなかった。
その代わりに、この人は助かった命を慈しんだ。愛した人が残したこの店を、女一人で守り抜いた。
この人はやりぬいたのだ。そして、その人が頑張りなさいと自分を受け入れてくれた。なら、自分にもできるかもしれないと直美は思った。
泣いて負けを認めるより、泣かずに勝つことが出来るかもしれない。
・・私にも・・
そんな、漠然とした何の根拠もない自信が直美の中に生まれだしていた。そして不思議なことに、しおれた心はいつの間にかどこかに消え失せていた。
「はい、もう泣きません」
大女将の優しい目で頷く姿に、直美は涙をふきながら微笑んでいた。
そして直美はその言葉通り、さっきまでのしおれていた身体は真っ直ぐ前を向き、大女将に対して丁寧に頭を下げた。横で安心した孝一の、あの、いつも見慣れた空豆の笑顔が見える。
―おばあちゃん、私、ここで頑張るよ。生きて行くよー
それは、ここには自分を理解し、受け入れてくれる人がいる。
もう、自分を偽らなくていいと安心した直美の心が出した答えだった。
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