第一章 其山怜香   (四十八)

 どれくらい時間がたったのだろう。広瀬恵子の泣き声はすすり泣きから、泣くことを終わりにしようと必死に手の甲で鼻を押さえながら鼻水をすすりだしていた。

 怜香は座り込む恵子の横に優雅に屈むと、小さな包みをバッグから出し恵子に手渡した。


「気がすんだ。なら、これを見てくれる?」と怜香は恵子に向けて静かに言った。

「なに?」と言いながら恵子が手を出す。


 そして、包みにつけられたメッセージカードの文字を読んだ恵子が、

「Bonheur de Keiko・・・?どういう意味?フランス語?」と不思議そうな顔をして怜香に聞き返した。


「ええ、そう。フランス語よ。ボヌール・ドゥ・ケイコ。意味は〝ケイコの幸せ〟」

「ケイコの幸せ・・?」

「ええ。私ね、恵子さん。彼と結婚する前に、ほんの偶然の出来事から、ある人に会ったの。その人から私の名前には二つの人生があると教えられたわ。一つは傲慢で心のない人生。もう一つは、心ある人生をおくることの出来る私の人生」


「心ある・・人生」

 恵子が怜香を見つめながら呟く。


「そうよ、ある意味あなたには感謝しているのよ。あなたが、あの男に私のことを伝えてくれたお陰で、私はその人にも会えたし。彼の・・、婚約者の、孝一さんの目には見えない素晴らしさに気づくこともできたわ。ありがとう、感謝しているの。だから今度はあなたの番」

「私の・・番?」


「そう、今度は広瀬恵子の番。それで私、その人に・・、ごめんなさい、勝手にあなたの名前を見てもらったの。だから、これから言うことを聞いても怒らないでね。特に初めの方は聞きたくないかもしれないけど。あなたが幸せになるためには必要なことなのよ。それに、この言葉はプロの言葉だから間違いないわ」

 恵子は、怜香の瞳を見つめて〝分かったわ〟というように軽く頷いた。


「まず、広瀬恵子さん。あなたの名前には、どこまでも続く潤いのない砂漠のような荒野が見えるらしいわ。そして、あなたは、本当はそんなところにいたくはないのに、こんな道を歩きたくはないのに・・と思っている」


 怜香の言葉に恵子は目線を落として、手にした小さな包みを見つめている。

そして・・・、

「続けて・・」


「ええ、分かったわ。でも、それは誰のせいでもない。あなた自身の中にあるおかしなプライドのせい。歩きたくないなら、そこから抜け出したいなら・・。少し立ち止まって、手放すものがありはしないか考えてみればいい。そして、凝り固まった心を柔らかくほぐしてみればいい。そうすれば・・、新しい道。自分が本当に歩きたいと思う道が目の前にあることに気がつくはずだから。その手助けをしてくれるのが、これ。この香り、ボヌール・ドゥ・ケイコ」


「ケイコ・・の幸せ・・」と恵子が呟いた。ただ、その声にトゲはなかった。

「そう、騙されたと思って、一度その香りを嗅いでみて」

「ええ・・」と、恵子は小さく返事した。


 そして、ボヌール・ドゥ・ケイコの小さなボトルが入ったピンク色のポーチのヒモを恵子がゆっくりとほどく。中から貝の形をした可愛らしいボトルが顔を出した。そして、その小さな金の蓋を開けた。

 恵子は、その小さな貝の形をしたボトルの口を、そっと自分の鼻に近づけて・・、息を静かに吸った。


「なんだか気持ちが落ち着く・・。柑橘系のさわやかな香りが先に来て、それから、少し甘い香りがする。とっても気持ちいい。それに・・、不思議、幸せな気持ちにしてくれる」

と恵子がほっとしたように言った。

 このとき怜香は、初めて怜香に向けて微笑む恵子の笑顔を可愛いと思った。

 きっと田口圭一郎は、この無防備で、可愛らしい笑顔を好きになったのだろうと思った。




「これは、その人の受け売りなんだけど、聞いてくれる?恵子さん」

 怜香の問いかけに広瀬恵子は真剣なまなざしで頷く。それと同時に周りの外野席の人間たちまでもが静かに頷いたような気がした。


「今、恵子さんが言った。柑橘系の爽やかな香りはグレープフルーツよ。爽やかで、明るくポジティブな気持ちにしてくれる香り。そして生きる喜びや、軽快さ、自信を感じさせてくれる香り。もう一つは幸せに、恵子さんの幸せに向かって一直線に突き進んで行く新しい予感を感じさせてくれる香りなの。そして少し甘い香りを感じたのは、ローズね。

ローズは気品があり高貴な香りだわ。愛や献身に心を開かせて忍耐を教えてくれるの。そしてここが重要。心の痛みを癒やし、その優しい香りで恵子さんを包み込んでくれたはずよ。だから幸せだと感じることが出来た。

そして、爽やかさと幸福感を一緒につれてきてくれる。

この二つを繋いでくれているのがラベンダーの香り。ラベンダーには、「洗う」という意味と、「薬」という意味がある穏やかな香りなの。この…、やすらぐ香りが心身を浄化してくれてね。ほんの少しのローズの微妙な香りを感じさせてくれるのよ。不思議でしょ?」


「ええ・・」と言って恵子はもう一度香りを嗅いだ。

 そして唇を軽く噛んで目線を下げて考え込んだが・・。意を決したように怜香の方を向くと、こう聞いてきた。


「でも、どうして・・。この香りを私に?」

「そうね、あなたにとって天敵の私がどうしてかしら?と不思議に思うのは無理のないことね。」

「ええ」と言って、恵子は素直に頷いた。


「ねぇ、恵子さん。あなたは私のことを天敵と思っているかもしれないけど。正直な話、牛窓さんの件以来。私はあなたのことを、普段は思い出しもしないくらいに忘れていたわ・・。敵だとも、味方だとも・・、なんとも思ってはいないの。同じ会社で働く者。ただそれだけ。だからなぜ?そこまでして、あなたが私と、あの男のことを調べあげたりするのか。後をつけたりするのか。そして、ばれれば自分が不利になるようなことをしたのか・・、初めは理解出来なかった」


「・・・・・」

恵子の細い目が悔しのか、恨めしそうに怜香を見ている。

「ごめんなさいね。それで私、気がついたの。仕事をしているときの私は、女ではなくて男だったんだって・・。だから仕事に男女の関係などは持ち込むはずがない。ないから、あなたの女性としての気持ちに気がつかなかったのよ。ごめんなさい。私、鈍いわね」


 恵子の髪が左右に揺れる。

「ありがとう。でね、気がついたの・・。あなたも私と同じ。ただ幸せになりたいだけ、とてもシンプルにね。だから、これは私からのプレゼントよ、恵子さん。彼と、田口さんと幸せになって」

「・・私・・。でも・・、私なんて・・」


「なに情けない声を出しているの?大切なものは案外身近にありすぎて分からなくなるものよ。それに、あなたと田口さん、とても相性が良いらしいわ。その人が、あなたは間違いなく彼と結婚して見違えるように魅力的になる女性だって、生まれ変わる人だって言っていたわ。もしその気があるなら、その人を紹介するから自分の目と耳で確かめに行くといいわ。」

「ありがとう・・」

 元来が素直な広瀬恵子は怜香からもらった小さなボトルを握りしめて・・。恥ずかしそうに小さな声でそう言った。


「にしても、相当酷く散らかしてしまったわね。」

 顔をあげた広瀬恵子が周りをチラリと見て軽く頷く。それを合図に怜香は勢いよく立ち上がった。


「さぁーてと、今日中に片付けないとね。」

 怜香の言葉に恵子は照れたように笑って頷いた。すると入り口近くでずっと中の様子を見ていた外野席から・・。

「ほら、おまえ達も行って手伝ってやれ!」という太い声がして、若い男性が二人と女性が三人、素早く手伝いに来てくれた。

 その中には、この部屋の前まで案内してくれた年配の女性もいた。




「いやぁー、しかし、本家本元の、本社の秘書さんは綺麗なだけじゃー、なれませんなー」と太い声の主もえらく機嫌良く怜香に声をかけると、転がった段ボールを積み上げてくれている。

 怜香は太い声の主に対して気軽に声をかけていた。


「お褒めいただき、ありがとうございます。世渡りのうまさと体力が勝負ですから」

「はははぁ、なるほど。体力は同じですな。顔は・・、随分と違いますが、」

「嫌だ!所長、当たり前ですよ、ねぇー」

 伝票を屈んで拾っていた若い女性がおかしそうに言う。

 それを聞いた男性陣も、「そうですよ、所長。比べる方がヘンですよ」とドッと笑いが起きた。


「そうか?ヘンか?そうだな、ヘンだな!はははぁー」と所長と呼ばれた主は、太くて大きな声で豪快に笑う。

「あら、小柳所長でしたか。これは失礼いたしました」と怜香がにこやかに笑いながら言った。

「あら・・と、言われるほど。私は有名ですか?秘書課で?」と、所長と呼ばれた主は驚いたような顔をして怜香に聞き返してきた。

「ええ、なかなか太っ腹な方だとお伺いしています」と怜香は丁寧にこたえた。


 ここに来る前、怜香は小柳所長のことは調べた。

 現場たたき上げの人で、その分情に厚く真っ直ぐだが頑固でやりにくいところがあるとも聞いていた。

 顔も事前にチェックして、多分、間違いないとは思ってはいたが、怜香はわざと知らないことを装っていた。


「ほぉー」といった小柳の手が止まる。

「ええ、私が思いますに、なかなか太っ腹の小柳所長は、ひと仕事終わった私と広瀬さんに・・」と言いながら、怜香はとびきりの笑顔を向ける。

「二人に?」

「力の出る、おうどんをご馳走して頂けると考えております。あっ!いえ、今、小柳所長は、まてまて、それでは他の者がかわいそうだ。ここにいる全員にと、考えが変わられたと思いますが?いかがでしょう?」

 小柳は、怜香の真剣な問いかけに吹き出した。


「分かった、分かった。とっととこれを片づけて、みんなで、おかめうどんを食べに行くぞ!」

「はぁーい」と若い女性の声が元気に響き、目を細め怜香に無邪気に笑いかけた。

 怜香は、小柳所長がうどん好きで、この商品管理センター前の大きな道路を挟んで向かいにある、うどん屋「おかめ」がお気に入りなのは事前にリサーチ済みだった。




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…名前の一字目に 『い』 の文字があるあなたへ、


…あなたが幸せになる為への「ひと言アドバイス」 …


☆気分ムラをなくして、自分流「モチベーション維持」を心がけて!☆





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