第一章 其山怜香 (四十七)
「本当に、それだけで結婚する気になったの・・」と恵子が絞り出すような声で怜香に聞いた来た。
怜香は、「そうね、前の私なら・・。そんな話を聞いても他人事ですませていたでしょうね」と落ち着いた声でこたえた。
「なら、なぜ?なんで?なんでよ!秘書課の華、高値の華のあんたが、其山怜香が!地位と金。見栄の大好きなあんたが・・。なんで障害のある、こんな不細工な男と結婚するのよ!」と恵子は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、「それって、ずいぶんな言い方ね」と落ち着いた声の怜香が冷たく恵子を突き放す。恵子はキッと怜香を睨んでから悔しそうに下唇を噛んだ。
そして、「だってそうじゃない。あんたの相手は、この前まで年商何十億のIT社長。年下のイケメン社長じゃない。それも、あんたと同じくらい見栄はりの成金男じゃない」と怜香に負けじと低い声で言い返してきた。
「確かに、一部は当たっているわ。でも誤解しないで、私は、それだけの努力をしてきたわ。仕事でも、私生活でも、常に努力をしてきたわ。ただ何もしないで、落ちてくるものを待っていた訳じゃない」と怜香は恵子に対して言い切った。
「それは、私だって言いたいの!」
恵子の声がまた怒りに震え出す。
「ええ、そうよ。あなただってもう分かっているはずよ、縁故入社。あなたが、あなたのおじいさまの力で、何の努力もしないで、この会社に入れたことを・・。去年、花巻専務が退社したことでわかったはずよ。今度の件で、誰も、あなたを庇ってはくれなかったことで、それは十分に分かっているはずだわ。違う?広瀬恵子さん。酷い言い方だけど、本社の総務から・・。ここに、この場所にいるのが、なによりも、その証拠ではないこと?」
「だったら、何よ!そうよ、そのとおりよ。これで!満足した?私が何の努力もしないで、こんないい会社に入れて・・。でも、それは、おじちゃんの力。私じゃない・・。私は・・・、私は・・」と言いよどむ恵子に向けて怜香が静かに言った。
「あなたは、あなたの名前は、鬼瓦ではないわ。ごめんなさい。私は、あなたに酷い言葉を投げ掛けたわ。あの時、あなたは、あなたなりに頑張っていたのよ。ただそれは、私とは方向性が違っただけだった。なのに私は、私の考えであなたを裁いた。あの頃の私は自分が絶対に正しいと思い上がっていたわ。本当に、ごめんなさい」
怜香は素直に謝り。恵子に頭を下げた。
恵子はまるでそこに根が生えたように動かない。息をしているのか?とも疑問になる。外野席の人間たちも息を止めているのかというほどに静かだ。
薄暗い部屋の中、さっきまで二人を照らしていた小さな窓の光は移動して広瀬恵子の顔が影になり、今どんな表情をしているのかは分からない。
怜香はただ黙って頭を下げたままだった。クーラーの風がカサカサと床に散らばる紙の海を波立たせていた。
「なによ・・。なによ、また私一人を悪者にする気!」
恵子の泣きそうな声が小さな悲鳴のように聞こえた。
「違うわ!」
「違わないわ!あんたはいつもそうよ!そうやっていい子になるのよ!一人だけいい子になって私を陥れるのよ!」
顔をあげた怜香の目には悔しそうに顔を歪め、両手を上下に激しく動かし、地団駄を踏んで床の紙を荒々しく踏みならす我が儘な、だだっ子のような恵子がそこにいた。
―呆れるわ。この期に及んでまだ逃げようとするの?分かったわ。これはもう荒療治しかないわねー
・・パァーン・・。
小気味よい音が部屋中に響いたと同時にピンと空気が張り詰め・・、静まり帰る。どうやら誰もの息が止まったようだ。
恵子は頬を片手で抑えて口をあんぐり開けて突っ立っている。どうやら自分の身に何が起こったのか分からないようだった。
「いい加減にしなさいよ!いつまでそうやって甘えている気なの。なぜ田口圭一郎さんが私に会いに来たと思っているの!少しは考えなさいよ!あなたの、その子どもじみた思い込みが、あなた自身を不幸にしていることに、なぜ!気がつかないの」
怜香は一気にそう言ってから大きく息を吸いこんだ。
そして・・、落ち着いた良く通る声で優しく話し出した。
「いい、広瀬恵子さん。彼はあなたを大切に思っている。だから私に会いに来た。あなたと幸せになるためにね。それは、あなたが私という、其山怜香という呪縛から目を覚まして欲しいからよ。だからお願い。気がついてあげて。あなたが生涯かけて見る相手は私じゃない。私の幻じゃない。あなたを、あなたのことを一番大切に思ってくれている彼なのよ。あなたがその目で、心で見る相手は彼なの。田口圭一郎さんなのよ。もう分かっているでしょ。これ以上、逃げるのは止めるのよ広瀬恵子さん。もう、おじいさまに甘えるのは止めなさい。あなたは、もう小さな子どもじゃない。一人の男性に愛される大人の女性になるべきよ!」
「・・・・・」
「私はそうあって欲しいの。あなたに幸せになって欲しいのよ。お願いだから目を覚まして。そして彼のことを真正面から、ちゃんと見てあげてちょうだい」
それは怜香が、怜香自身に向けて話しているようにも感じていた。
多分、孝一を知らなければ、牧原直美が教えてくれなければ、怜香自身も目の前の広瀬恵子のように愚かなことを永遠に繰り返していただろうと思うからだった。
「どぉーして、どうしてよ!どうして其山怜香は私の中で、悪魔でいてくれないのよー」
「広瀬さん」
「どうしてよー」
恵子は小さく泣きじゃくりながら〝悪魔のままでいてくれたらよかったのに〟と囁き、床が見えないくらい敷き詰められた配送伝票の控えの上にペタンと座り込んだ。
そして今度は声を上げて激しく泣き出した。
泣けばいいと怜香は思った。
泣いて気が済むならそれが一番いいことだ。
ここで泣けなければ広瀬恵子の心はまた蓋をしてしまう。怜香は恵子が泣き止むまで待つことにした。
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…名前の一字目に 『あ』 の文字がある、あなたが幸せになる為への「ひと言アドバイス」 …
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