第一章 其山怜香 (四十六)
怜香から「らっきょう」と呼ばれた係長が机に両手をついて立ち上がりかけたまま目をパチパチさせて突っ立っている。
そして静まりかえった部屋の中、それに入り口に重なるようにして二人の様子をジッと見ている大勢の目などものともせずに・・。いや、きっと怜香には恵子以外の人間の姿など目にも入っていない。
怜香は、壊れかけたクーラーの風を感じながらも全身に薄らと汗をかき、顔や口にハラハラとかかる乱れて落ちてきた髪を払いのけながら、恵子に向けて静かに言った。
「私、今日は・・、今日はあなたに、広瀬恵子さん、あなたに謝りに来たのよ」
恵子は薄い・・、細い目で怜香をギッと睨んだ。
そして、
「ふざけるなー、其山怜香!あんたぁ・・が・・」と、恵子は顔を真っ赤にしてそう叫んでから急にむせてゴホゴホ咳きだした。
―相変わらずね広瀬恵子。昔の私ならためらわずに一撃で反撃していたわー
そう、昔の怜香なら相手の気持ちなどお構いなしに事実を事実として、何の躊躇いも無く口にしていた。結果、相手を深く傷つけていただろう。
今更ながら自分の性格のきつさが嫌になると怜香は思った。
・・が、広瀬恵子も怜香と同じくらいにきついと、このとき怜香は初めて気がついた。
二人は、よく似ているのだ。
―外見は全然違うけどねー
そう思うと怜香は急におかしくなって笑えてきた。
「何が!おかしいのよ!どうせまた、私のことを、私の容姿を見て笑っているんでしょ!私のことを、・・・・だって・・」
恵子の最後の言葉は口の中で音が消えて、そこにいる誰にも聞こえはしなかった。
このとき、えらくしぼんで小さくなったように見える恵子を無視して、怜香は飛び散った段ボールと紙の海から自分のバッグを探しだし、拾い上げた。
そしてゆっくりとバッグの蓋を開ける。
―あらぁ!爪が折れちゃったー
怜香は自分の右手の人差し指の淡いピンク色にネイルされた・・先・・、伸ばした爪の先半分が斜めに折れてなくっていることに気がついた。
怜香の胸の奥がイラりとざわつく。
―どういうこと?―
チラリと恵子を見ると白いブラウスの袖から出ている腕に、薄らとだが赤い筋がにじんで見える。
―お互い様ね、気にすることないわー
怜香は深く息を吸い込み、そう自分を納得させた。やがて胸の奥のざわつきは小さな点となりながら固まり、沈んでいった。
それから怜香は、バッグから一枚の写真を取り出すと恵子に向けて見せた。
「これが私の婚約者よ」
初め恵子は嫌な顔をした。
眉間にシワを寄せ、顔を斜めにしながら左頬が歪む。身体全体で見たくはないといっているように見えた。だが怜香はひるまずに一歩前に出て、写真を恵子の目元ギリギリまで突きつけた。
「そんなに突きつけなくても見えるわよ!これでも目はいいんだから!」と恵子が怜香に叫ぶ。
「なら、ちゃんと見なさいよ!」
怜香も負けずに恵子に対して怒鳴り返した。
「・・。あの男じゃ・・ない」
恵子は驚いたように目を見張ってから射るような鋭い視線で怜香を見た。
「そうよ、あなたが卑劣な手段で告げ口をした。あの男じゃないわ!」
「なぁ、なによ!やっぱり私を責めに来たんじゃないのー」
「違うわ。でも、それぐらい言わせてもらってもいいでしょう。私だって、その時は腹が立ったんだから!違う!」
怜香の言葉に恵子は唇を噛んで黙った。自分が悪いといことをしたということは自覚しているのだろう。
「彼、子どもの頃の交通事故が原因で言語機能に障害が少しあるの。だから、ゆっくりと分かりやすく気長に話さないといけないわ。それに、見てのとおり男前でもない。彼は、たった一人の生き残り。お姉さんと、お父さんをその時の交通事故で亡くしているのよ。でも、お母さんを悲しませたくないから・・。彼は、まだ小さな子どもだった彼は、必死で頑張ってリハビリして、やっと人並みに動けるようになって、話せるようになって・・。そして、今、大人になった彼は、自分の障害と仲良く付き合いながら家の家業を継ごうとしているわ。とても、ゆっくりとはだけどね。だから私は彼を支えて一緒に生きていこうと思ったの。そう決めたのよ」
恵子は、孝一と怜香が幸せそうに笑っている写真を無言で、でも目を怒らせながら食い入るように見ている。
「先週末、田口圭一郎さんが私に会いに来たわ。」
「えっ、圭ちゃんが?」
恵子の声が裏返った。
「ええ、そう。そうよ、田口圭一郎さん。あなたと彼とは幼馴染みなんですてね」
恵子は写真と怜香から目をそらし無言で小さく頷いた。恵子の苛立たしげな想いが怜香には手に取るように分かる。
―きっと私が田口圭一郎と何を話したのか、自分なりに考えているのね・・。そして知りたいはずよ。あなたは・・―
怜香は恵子の想いが落ち着くまで待とうと、静かに、ゆっくりと息を深く吸い込んでいた。
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…名前の一字目に 『ん』 の文字がある人(は、いないかな?)…
☆場を和ませる、気配りの人☆
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