第一章 其山怜香   (四十五)

 ここに来る三日前。丁度、先週の金曜日だ。受付に、怜香にどうしても会いたいという人物が来ていると内線が入った。

 相手は田口たぐち圭一郎けいいちろうと名乗っているという。だが、その名前に怜香は心当たりがなかった。


「ごめんなさい、私の知らない人だわ」

「そうですか・・。あっ、ちょっとお待ちください」

「ええ、」

 相手が何か言っているのだろう。暫く怜香は受話器を持ったまま静かに待った。


「すみません。今年初めまで総務にいて、商品管理センターに移動になった広瀬恵子さんのことで、どうしても其山さんに、お話したいことがあるそうです」

「広瀬恵子さんのことで?私に・・」

「ええ、なんでも広瀬恵子さんの古いご友人だとおっしゃっていますが・・」

「そう、分かったわ。お会いすると伝えて」



 最上階からエレベーターで一階に降り、怜香はゆっくりと左に曲がって受け付けへと向かった。怜香の姿に気がついたさっきの内線電話の彼女が頷くようにして、目線で来客の位置を指し示した。

 怜香は、その目線に〝分かったわ〟とこたえて、そのまま受付の前を通り過ぎ歩いた。


―ごま塩みたいな・・男・・―

 一階奥、全面ガラス張りの道行く外の景色と、光が入るエントランスに規則正しく置かれたグレーのソファ席に座っているのは、黒いズボンに紺のVネックの綿セーターを着た、顔には大きなプツプツの後が幾つもある、気の良さそうな細くて背の高い男だった。


―ごま塩に・・・。空豆―

 孝一の、あの愛想のいい笑い顔を思い出して、怜香は急におかしくなった。以前の怜香なら決して目に止めもしない男達二人だったからだ。


「お待たせいたしました。其山怜香です。広瀬恵子さんのことでお話があるとか?」

「あっ、はい。田口圭一郎と申します。広瀬恵子さんとは家が近所で・・。祖父同士が友人で、私と恵子さんは同い年の幼馴染みです」

「そうでしたか。で、今日は広瀬恵子さんの、どういったことで田口さんは、私にお話があるのでしょうか?」

「あっ、はい。あのぉ、あんまりお綺麗なんで・・。今、ちょっと気後れしています。すみません」

「いいえ、男性から褒められることは光栄ですし嬉しいことです。ありがとうございます」


 素直な受け答えが圭一郎の人の良さと優しさを現している。以前の外見重視の怜香なら気がつかなかっただろう。

 怜香は小さなテーブルを挟んで圭一郎の向かいに座り。〝それで?〟と問いかけるように、圭一郎に向けて正面から優しく笑いかけた。

 圭一郎は意を決したように姿勢を正すと、怜香に言った。


「あっ・・。実は、勝手な、本当に身勝手なお願いなんですが・・」

「はい」

「恵子ちゃんを、もう自由にしてあげてほしいんです」

「えっ?どういう意味ですか?」

 意味が分からず驚いた怜香は圭一郎に聞き返した。


「僕は、今日、あなたとお会いしました。そして目の前のあなたは、恵子ちゃんがいうような人じゃ無い。綺麗なだけで人を貶めるような人じゃ無い・・。あっ、すみません。僕、今、とてもひどいこと言ってますね。すみません・・。とにかく、恵子ちゃんは、あなたを憎むことしか考えていないんです。」

 これには怜香も、どうこたえたものか直ぐには言葉が出なかった。


「すみません。すみませんついでですが。怜香さん・・。あっ、失礼します。怜香さんとお呼びしていいですか?」

「ええ、構いませんわ」

「実は僕、怜香さんが結婚されるのを知っているんです。」

 怜香はこれにも驚いた。確かに怜香は孝一と結婚するが、それを知っているのは・・、ごく少数の人間だけだ。


「どうしてそれを、ご存じなんですか?」

 怜香は、また広瀬恵子が自分を影でつけ回していたのかと思って、正直ぞっとした。




「すみません。びっくりされますよね。偶然なんです僕がそれを知ったのは、実は僕、郵便局に勤めていまして。たまたま、お使いに来ていた女性二人が・・、怜香さんが結婚されると小声で話していたのを聞いてしまったんです」

「そうでしたか」


「それと、これもたまたまなんですが、怜香さんが婚約者さんだと思う男性と一緒にいるのを僕見たんです。でも、恵子ちゃんがいうような鼻持ちならない金の匂いのプンプンした格好付けの男じゃ無かった。イケメンでも・・、あっ、また失礼を言いそうでした。すみません。とにかく僕が恵子ちゃんから聞いている怜香さんとは全然違う、僕はそう思いました。恵子ちゃんは誤解している。怜香さんは外見やお金を中心に男性を選ぶような人じゃ無い。僕は怜香さんと一緒の男性・・、婚約者さんを見てそう思いました。そう直感しました。恵子ちゃんは間違っていると」


 圭一郎の言葉は怜香の耳には痛かった。

 それは以前の怜香だ。

 理恵に会う前の・・、鼻持ちならない女。

 だから広瀬恵子はある意味間違ってはいない。

 ただ、今の怜香は以前の怜香ではない。ないから・・、圭一郎の言葉は嬉しい。素直に喜びたい。

 嬉しいが、それと広瀬恵子を自由にしてやって欲しいとどう結びつくのかが怜香には分からない。


「そう言っていただけると素直に嬉しいですわ。でも、それと広瀬恵子さんを自由にしてあげて欲しいということとどう関係するのでしょうか」

 ここで、怜香は言葉を切った。

 そして・・、

「ごめんなさい。私には分かりません。教えて頂けますか?」


「はい、僕は子どもの頃から恵子ちゃんが好きです。結婚したいと思っています。でも、恵子ちゃんは怜香さんに言われた言葉にとりつかれていて、」

「私が、言った言葉?」

「はい、そうです。だから僕のプロポーズを本気にしてくれません。今の恵子ちゃんは自分の幸せより、怜香さんの不幸を祈っている。望んでいる。そのことしか、目にも、頭にも入っていないんです。だから僕のことは見えているけど・・。全然見えていません。」


―広瀬恵子に、私が言った言葉?なに・・、私なにか?言った?―

 怜香には心当たりがない。

 考え込む怜香に圭一郎が言った。


「なんでも容姿に関わることだそうです。僕にも、はっきりとは言葉にして言ってはくれませんでした」

「容姿?」

 はて?さて?そう言われても怜香は困惑した。

 心当たりが無い。


―容姿?・・、容姿・・。広瀬恵子の?容姿?・・・・・―


―・・・・・、・・・。―


 暫くして怜香が「あっ・・」と小さな声を上げて圭一郎を見た。

 彼は真剣な顔で、怜香が、恵子に言った言葉を思い出してくれることを祈りながら膝を寄せ・・。

 その上にきちんと両手を置いて、辛抱強く、身体を中心に集め少し前のめりになり怜香を凝視している。

 真剣に、静かに待っている圭一郎のその姿が、なぜだか孝一の姿と重なる。


―私は愚かだわ。孝一さんと幸せになるためにも、広瀬恵子に絶対に会わなければいけないのよー


 怜香は、もう誰にも自分の幸せを邪魔されたくはないと思った。それは不思議なことだが、これまでにない感覚といって良かった。

 多分、それだけ孝一に対する想いが本気だということを目の前に座る圭一郎に気づかされたといってもいい。

 私は変わったのだ・・、と怜香は自分で気がつき、決心した。


「分かりました。広瀬恵子さんにお会いします。会って直接、私がお話してきますわ」

「ありがとうございます」

 ほっ・・、として力が抜けた圭一郎の顔は嬉しそうにほころんでいた。




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…名前の一字目に 『を』 の文字がある人(は、いないかな?)…


☆良い方向へと人を導き、育てることが出来る人☆




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