第一章 其山怜香   (四十三)

「しかし、今日はびっくりしたよ。だが残念なことに、姉さんの思いは届かなかったな。」

「仕方がないわ。怜香さんを、うちの孝一の嫁にだなんて初めから無理があったんだし・・ね。」


「それは仕方ないさ。大体、あの牧原くんのことで一番迷惑を被ったのは其山くんだ。そんなことがあったんだ。孝一のことなど頭にもなかったんじゃないかな。」

「ええ、そうね。それに、怜香さんをお嫁さんに欲しいと思っていたのは私で、孝一ではないし。孝一は、あのどうにもならない娘がいいと言ったんだから…」


「親の心、子知らず。何処の親でも経験することさ。何も姉さんだけのことじゃ無いよ。うちもそうなるだろうし」

「そうね、美紀ちゃんも、聡くんも、もうそろそろお年頃ですものね」


「しかし其山くんも、思い切ったことをしたね。一楽の座敷を用意するとは・・。僕はてっきり母屋で挨拶だけかと思っていたよ。」

「それが、どうしても、お相手に一楽の料理を食べて欲しいそうよ。」


「これはまた責任重大だな、姉さん。」

「ええ、だから板長にも気合いを入れさせたわ。なんといっても怜香さんの婚約祝いのようなものですものね、今日は・・ね。」

「そうだな。しかし・・、どんな相手なんだか・・」

「あら、心配?」

「そりゃ心配だよ。其山くんとは長いからね。」




「女将さん、怜香さんがお見えになりました。」と仲居頭の葉月が言いに来た。

「そう、お通しして」

「はい、今、若旦那がご一緒に案内してこられます。」

「分かったわ。お料理は、お話の後になるから呼ぶまで待っていてちょうだい。葉月さんから板長にも、その段取りで言ってきてくれる。」

「はい、かしこまりました。女将さん」



「いよいよ、ご対面だな。姉さん。」

「ええ、そうね。ちょっと緊張するわね。」

「ああ、」




「母さん。怜香さんがお見えです」

「あぁ、孝一、ご苦労様。怜香さん、いらっしゃいませ。」

「すみません、女将さん。急なお願いをしてしまって」

「いいえ、いいのよ。他ならぬ怜香さんのお目出度いことですもの。ところで…、お相手の方は?孝一、怜香さんのお連れさんは?」

「あっ、あの、母さん…」

「なに?どうしたの?」

「それが…、」

「どうしたの?孝一。もじもじと、はっきりしない子ね。早く言いなさい」

「姉さん、そうガミガミ言ったら、孝一だって話せないさ、なぁ孝一」

「叔父さん、ありがとう。怜香さんの連れは僕なんだ。」

「えっ!・・・」

「叔父さん、母さん。僕が怜香さんと結婚するんだ」

「・・・孝一」

「まぁー、どうしましょう。忠明たかあき、私の耳が、おかしくなったのかしら?今、うちの息子と怜香さんが結婚するって聞こえたけど・・」

「あっ・・ぁ、聞こえたよ。姉さん、間違いない。それは本当なのかね?其山くん。」

「ええ、本当です。課長」




「そりゃ、本当かい?若旦那と、あの、べっぴんの秘書さんが?かい」

「ええ、そうなのよ。もう大変。女将さんが喜びすぎて、ひっくり返りそうなのよ」

「そりゃ、そうだろうよ。しかし、うちの若旦那もやるじゃないか、えぇー」

「本当、やるときはやるのよ、うちの若旦那はぁー」

「そうだなぁー、あのパープーな女を連れて来た日にゃー、どうなることかとおもったが・・。さすが、うちの若旦那だ。あの、べっぴんの秘書さんなら文句ねぇ。任しときな、俺が腕によりをかけた、これぞ一楽てぇ料理を作ってやるぜぇ!」

「任したわよ!板長」

「おぅ!いわれなくったって、こちとら承知のすけよー」

「そうこなくっちゃーね」

「とうとう一楽にも春がきたねー。旦那とお嬢さんが亡くなってから・・。小さい若旦那の、あの姿を・・・」

「そうだねー。まともに歩くことも出来なかったんだから」

「ああぁー、だが若旦那は泣き言一つ言わなかったぜ。あの、ちいせぇ身体でよぉー。俺は、なんど手を貸そうとおもったかしれねー」

「そうだねー、私だって一緒・・。やだ、板長!しんみりしてる暇は無いのよ。ほら、仕事、仕事、仕事しないとね。将来の女将に示しがつかないわよ」

「ああぁー、分かってら!任しとけ」




「いや、驚いたよ。其山くんのお相手が、うちの孝一だったとは・・、まさか僕も夢にも思わなかったよ」

「まぁー、本当に夢じゃないから・・。ねぇ、これは夢じゃ無いのよね、孝一、怜香さん」

「はい、現実です。女将さん、いえ、孝一さんのお義母様」

「まぁ、まー、私は夢を見ているみたいだわ」

「はははぁ、姉さん。良かったじゃ無いか。でもどうして孝一に、一楽の料理を食べさせたかったんだね?其山くん。」




「そりゃ、本当かい!」

「もぉ!板長、さっきから、本当か、本当かが多いわよ。私は嘘をついてなどおりません。」

「じゃ、なにか?俺は、若旦那のお父さんだってかい?」


「まぁ、お父さん・・っていうかねー。若旦那は、お父さんの、亡くなった旦那が作る、一楽の料理を食べたことが無いでしょう。でも、板長は亡くなった旦那の一番弟子。だから板長の作る料理は、亡くなった旦那の料理と同じ味だって、怜香さんが言ってくれたんだってよ、うちの若旦那に。それで、結婚の報告をする今日!この大事な日を、この一楽で、父親の料理で祝ってもらいましょう、って言ってくれたんだってよ。」


「本当かい!」

「ほら、またー、本当かって・・。やだ、泣くんじゃないわよ。こんな目出度い日に。とにかく、怜香さんと若旦那は、お父さん…、亡くなった旦那にも祝って欲しいのよ。だから亡くなった旦那の代わりに頼むわよ。」

「分かってらー、誰が泣いてんだって!俺は泣いてなんかいないぜ。こりゃー、さっきの…」

「はい、はい、分かりました。板長は泣いてなんかおりません。私の見間違いでございました」

「そぉーよ、そのとおりよ、おまえの見間違いよ!しっかりしてくれよ」

「でもさぁー、怜香さん良いとこあるよね」

「なにがでぇー」

「今日のお料理、6人分じゃない」

「ああ、そうさぁー、6人分だ」

「私さー、4人までは分かったのよ、うちの女将さんと弟の忠明さんに、怜香さんと怜香さんの相手。まぁ、この相手はうちの若旦那で、あと残りの二人は誰だか分からなかったんだけどね」


「誰で?」


「それがね、お料理の準備をするのに、部屋には4人しかいない。だけど女将さんは嬉しすぎて舞い上がっているから。あとお二人の分はどうしますか?って、私、わざと怜香さんにも聞こえるように女将さんに聞いたのよ。もしかしたら、あとの二人は怜香さんのご両親で、そのご両親がまだ来てないのかなぁー、なんて思ったから。そしたらさー、。怜香さんが私の方を向いて、にっこり笑って〝それと、亡くなった孝一さんのお父さんと、お姉さんの分の膳もお願いしますって…〟て、言ったのよ。ああぁ~って思ったわ。そういうことだったんだよね。今日の料理に二人分多かったのは、亡くなった旦那と、祐子お嬢さんの分だったんだよねって、」


「本当かい!」

「本当よ、いちいち煩いわねー。ちょっと!いやだー。もぉー、泣くのはやめてよ、板長!やだ、鼻水まで出てるじゃない!」と言って、板長を叱る葉月の目にも涙が溢れていた。


 この日、一楽は盆と正月が一緒に来たくらいに目出度く晴れやかな喜びの夜を迎えていた。



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