第一章 其山怜香 (四十)
「あっ!あ、落ちましたよ!」
横を歩いていた
動物園の歩道をゆっくりと反対側から歩いてきた父親と、5際くらいの小さな男の子の親子ずれが、孝一の目の前で帽子をコロリと落としたのだ。
それの帽子を孝一が素早く拾い、親子ずれの方に振り返る。
呼び止められた父親は、びっくりして反射的に「あっ、すみません」と口にはしたが、初め何が起こったのかよく分からない様子だった。
だが孝一の手の中の帽子を見て、自分の子どもの帽子だと気がつくと納得したようだ。
父親は、にこりと笑って孝一の手の中にある男の子の帽子を受け取った。
それから父親に、「もう、落としちゃだめだぞぉ。ほら、お礼は?」といわれ・・。
この人?誰?という顔をしながらも小さな男の子は、孝一に可愛らしい仕草で頭を下げた。
「すみません。」
もう一度、父親が孝一に笑顔で礼を言うと、親子連れは楽しそうに手を繋いで前を向いて歩き出した。
孝一は、遠ざかるその親子ずれの後ろ姿を眩しそうにみていた。そして突然、怜香の方を向いて嬉しそうに話しかけてきた。
「可愛いですね。僕も欲しいです女の子、怜香さんに似ている可愛い女の子が欲しいです。」
「そう、それはまだ早いわね。」
「どうしてですか?・・、僕が、嫌いだからですか?」
「いいえ、そうじゃなくて、あなたが私を嫌いになるかもしれないからよ」
「僕は怜香さんのことを嫌いになりません。」
「そうかしら?」
「そうです。」
「どうして?」
「怜香さんは、優しいから嫌いになりません。」
「そうかしら、私、案外意地悪よ。現に牧原さんに意地悪したわ。彼女から聞いているでしょ?」
「はい、聞いています」と元気に返事した孝一の顔は、怜香に向けて嬉しそうに笑っている。
―やっぱり・・。バカなの?この人・・―
怜香の心が微妙に揺れ出す。
やはり自分の勘違い。
間違いだったのかと・・。
「怜香さんは優しい人だ。やっぱり孝ちゃんが見た。孝ちゃんが感じた。小さな可愛らしいマーガレットみたいな人だと教えてくれました。ヤヤちゃんは、僕の言うことは、思ったことは本当だったと教えてくれました。」
孝一の言葉に怜香は怪訝な顔をした。けれど孝一は幸せそうに怜香を見ているだけだ。
どういう意味なの?そう尋ねようとしたとき、西園から東園に抜ける通路で二人が道の真ん中に立ち、後ろにいる親子ずれの邪魔になっていることに怜香は気がついた。
「ごめんなさい。」
「いいえー」と愛想のいい父親が怜香に笑いかけると・・。
すかさず横にいた兄と弟とが面白そうにおどけて見せ、「パパ、綺麗なお姉さんだから、にやけてる!」「にやけてるうぅー」と父親に対してこれ見よがしにはやし立てた。
― 嫌な感じ・・。ちっとも可愛らしさの無い兄弟ね。さっきの小さな男の子とは全然違うわ。ー
怜香は騒がしい二人の兄弟のはしゃぎように眉をひそめた。
すると、「すみません、煩くて・・」と後ろから母親が出てきて、兄弟二人を端に寄せながら通り過ぎる。
その母親が小さな声で「でも、どうして?あんな不細工な男といるの?お金ぇ?」と母親が父親にボソボソと話しかけている声が聞こえた。
孝一の顔が悲しく歪む・・。
と同時に・・。
「おぃ、こらぁ!」と父親の低く叱る声が聞こえた。
それと同時に、怜香の鋭くて冷たい目に睨まれていることに気がついた母親は、ヒッ・・と顔を引きつらせて、そそくさとその場から子どもたちの手を引いて小走りに逃げ出していった。
「行きましょう。あんな失礼な人の言うことなど気にしなくていいわ。心に目が無いのよ。そのくせ口は開きっぱなし・・、だらしがない下品な人の言葉など人の言葉では無いのだから聞き流してもいいわ。いいえ、忘れてしまいましょう。それが良いわ。分かった!」
「はぁ、はい」
怜香のきつい言葉に緊張したように慌てて返事した孝一だったが・・。
次の瞬間。それでも、自分のことのように怒っている怜香の心が嬉しかったのだろう。
目を細め、お昼のお弁当が入った赤いトートバッグをきゅっと握りしめると孝一は、幸せそうな顔で怜香に笑いかけていた。
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