第一章 其山怜香 (三十三)
カチャンと小さな金属音を響かせて扉が開く…、
怜香は、「どうぞ」とひと言無表情に迎えてくれた直美とともに玄関を入って直ぐの小さな廊下を左手に折れ、7帖ほどの広さがあるダイニンに置かれた二人がけ用テーブルに座った。
「怜香さんはコーヒーより、紅茶ですよね」と直美が静かに言った。
「ええ、ありがとう。覚えていてくれて」
怜香に背を向けてキッチンでお茶の用意をする直美は、白いタートルネックの長袖に洗いざらしのジーンズというラフな姿が会社で見るぎこちない姿とは違い、ごく自然に、素直そうに見えた。
「どうぞ」
「ありがとう。・・・、あら、美味しい。」
「ええ、今日は怜香さんが来るから昨日から練習していたんです。」
「本当に?」
「いいえ、嘘です。」
直美は、ここで初めてクスリと笑った。
「あなた、私を騙していたのね。本当は何もかも出来るのに、出来ない振りをしていた。違うかしら?」
「やっと、気づかれました。」
「ええ、遅ればせだけど・・。でも、・・・。なぜ?」
「分かりませんか?」
「ええ、分からないわ、降参。よかったら、どうしてだか教えて貰えるかしら」
「別れさせたかったんです。」
「別れさせる?誰と、誰を?」
「高ビーな怜香さんと、あの、鼻につく成金坊やとをです。だから総務の広瀬さんにはとばっちりをかけてしまって、ちょっと申し訳なかったけど・・。あの人、いずれはそうなる運命だっただろうから仕方ないかぁー、って感じですけどね。」
「高ビーな私ね。」
「ええ、だって怜香さん。あの男が、どんだけ悪か知らないでしょ」
「ええ、多分。あなたほどは知らないのかもしれないわね。」
ここで直美は、ふっと優しく笑って目線を下げるとカップにスプーンを入れてクルクルかき回し始めた。
「怜香さんは、私なんかと違って温室に入れられた綺麗な花だから、外の寒さを知らないんですよ。知らないから、あんなバカ成金に直ぐ騙されて…。本当に大事なものが見えて無いんですよ。」
「本当に大事なもの?」
「ええ、本当に大事なもの。お金では買えない大事なもの」
直美がバカな成金坊やと言ったのは裕樹のことだろう。
だか、今はそんな風に裕樹のことを貶されても怜香は怒る気さえわかない。
―随分、私も裕樹に対して冷たくなったものねー
そう思いながら、思わぬ美味しさを口にすることが出来た紅茶の味を楽しみたて、怜香は一口、二口と嬉しそうに飲んだ。
「本当に美味しいわ」
「でしょー、孝ちゃん直伝の腕だから」
「孝ちゃん、一楽の跡取り息子さん?」
「ええ、そうです。驚きました」
「ええ、驚いたわ」
「孝ちゃん、お茶のことなら誰にも負けないんです。お煎茶も美味しく入れてくれるし、抹茶も美味しく
「そうなの、しらなかったわ」
怜香の言葉に直美はキッと睨んで、サッといらだたしげに下を向いた。そして、ポッリと言った。
「知ろうなんてしなかったくせに…」
直美の言葉がなぜか悲しく、ぐさりと怜香の胸の奥を貫いた。だが、直美は自分の言った言葉を無視して話し出した。
「孝ちゃん、ちょっとトロイでしょう。でも、それには訳があるんです」
「訳?」
「孝ちゃん、小学校6年の時に交通事故に遭ったんです。一緒に乗っていた中学生のお姉ちゃんと、運転していたお父さんは助かりませんでした。前からトラックが突っ込んできて・・。前に乗っていた二人は即死。後ろの席に乗っていた孝ちゃんだけが助かった。でも、孝ちゃんも凄い大怪我で、生きるか死ぬかだったから後遺症が少し残っちゃったんです。だから、少し、言語がおかしくなっちゃうんです。一度に覚えられなくて混乱しちゃうんです。」
「そう、そうだったの・・・」
やっと怜香は、自分が目にした簡単な靴の出し入れさえ一人オロオロしてしまっていた、孝一の行動が理解出来た。
―私って、本当に、この子が言うように、どうしようもないくらいバカで、高ビーな人間だったわー
「ごめんなさい。私、彼のことを随分と誤解していたようね」
「いえ、いいんです。私も初めは金払いのいい客。私はラッキーくらいにしか思ってなかったらから。だから上ばかり見て生きてきた怜香さんには、下の方で幸せそうに微笑んで生きている孝ちゃんが見えなくても当然だと思います。」
―上ばかり見て。これは偶然?それとも・・ー
怜香の胸に、理恵の言葉が蘇る。
・・怜香さんには足元を訪れる四季の移り変わりも、小さな虫や、可愛らしい動物たちの楽しそうに鳴く声も、話しかけてくれる言葉も、聞こえていなかったのかもしれないわね・・
怜香は、ふっ・・と、柔らかに笑った。
「怜香さん?」
「ごめんなさい。私、あなたよりは年上だけど。人としては年下の大馬鹿者ね。」
「やだ、怜香さん。怜香さんが、そんなこと言うなんて天地がひっくり返るぅー」
「まぁ!失礼ね。やっぱり、あなたは失礼な子よ。」
「そう、それ!それでこそ、怜香さん。我が社の花、怜香嬢だぁー」
二人は顔を見合わせて笑った。
怜香は笑いながら、ふっと思った。こんなに楽しく笑ったことが、ここ何年かの間にあっただろうか?と。
そして、笑いは怜香の心の垣根を外したようだ。
「でも、分からないわ。高ビー女と成金坊やのカップルなんて、ほおっておけばいいのに。なにもわざわざ、あなたが苦労して・・今の、こんな状態になってまで別れさせる必要があるの?」
「分かりませんか?怜香さん?」
「ええ、分からないわね。それに、あなたと一楽の息子さんとは、本当はどういう関係なのかも分からないし・・」
「だったら教えてあげます。その理由を今から話してあげます」
と直美は、いたずら小僧のように怜香に笑いかけた。
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…名前の一字目に 『ゆ』 の文字がある人…
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