第一章 其山怜香 (三十)
「それで、怜香さんはなんて答えたの?」
「無視しました。」
「あら、まぁ・・」
怜香は再び理恵のサロンを訪れていた。
チャロは怜香を玄関で迎えると先頭だって部屋に入り、ソファの下で丸くなりジッと怜香を見ている。
怜香は理恵が入れてくれたコーヒーを一口飲んでから、少し興奮したように言葉を素早く詰め込んで理恵に話しかけてきた。
「とにかく理恵さん、あのオイルをもう一度作ってくれますか?」
「ええ、それはいいけど・・」
あの日、孝一から思わぬ告白をされた怜香は、泣きはらしたグジュグジュの孝一の言葉を無視して・・、「牧原直美さんとの結婚の話を破談にしてもいいということね。」と念押しすると孝一は素直に頷いた。
怜香は「分かったわ」とこたえて素早く立ち上がり、孝一をその場に残すと庭を左手にしながら廊下を真っ直ぐ前へと進み、突き当たりを左に曲がった。
そして女将と課長のいる一番奥の部屋に戻り、女将からのお願いを承諾した。
「でも、分からないわ。孝一さんと言う人の告白は無視したけど、どうして面倒なお役目を引き受けたの?怜香さん。その話を・・、嫌ではなかったの?」
「嫌です。今でも・・」
「ごめんなさいね。蒸し返すようだけど・・、今でも嫌なのに、なぜ引き受けたのかしら?」
「だって、おかしいと思いませんか?理恵さん。あのバカ息子は、牧原直美と結婚したくて叔父である私の上司に泣きついたんですよ。そして私の元で3年間仕事を覚えろ、それが結婚の条件だと、うちの会長まで巻き込んで牧原直美を無理矢理に入社させたんですよ。それなのに、あの直美がとんでもないことをやらかして、味方であった叔父からも結婚はダメだと言われた翌日、あのバカ息子は平気な顔をしていた。そのうえ、今度のことで私に謝るだけなら分かります。ですけど、あなたの本心はどうなの?と聞いたら、牧原直美のことはひと言も口に出ずに私と結婚したいだなんて、どう考えてもおかしいでしょう。これは?」と怜香が怒ったように言った。
「ええ、確かにおかしな話よね。」と理恵がこたえる。
「だから私、そのとき咄嗟に思ったんです。何かある。それを知っているのは牧原直美本人だ。だから彼女に会って直接話をしようと思ったんです。そう考えれば、二人だけで会うのは好都合だと思いました。」
確かに怜香の言うとおりだと理恵も思った。
「でも、なんだか気分がムシャクシャして、家に帰ってから残りのオイルを全てお風呂に入れて使い切ってしまったのね」
理恵は、怜香の目を見てゆっくりと確かめるように言った。
「ええ、そうです。いい考えが浮かぶかもしれないと思ったからです。」
「それで、いい考えは浮かんだ?」
「ええ、私、考えたんですけど・・、理恵さん。」
「ええ」
「もしかして牧原直美は、あのとき、会社のお手洗いで・・。私が居ることを知っていて、わざと大きな声で話していたんじゃないかって思うんです。それと・・」
「それと?」
「私、
「狡?」
「ええ、牧原直美に対して狡をしたんです。」
「怜香さんが?彼女に対して・・、どんな狡をしたの?」
「私は、それが会社にとっても、一楽という料亭にとっても、いいことだと思いましたからやりました。」
「ええ」
―一体?何をしたんだろうか・・―
でも、なんだか今の怜香は、怜香の言葉は言い訳をしているように聞こえると理恵は思った。
「実は、ほんの小さなことに気がつくか、つかないかを試したんです。」と怜香は言った。
「その、牧原直美さんを試したということ?」と理恵が念を押すように怜香に聞き返した。
「ええ、そうです、気がつくかどうかを試しました。」
怜香は試したといっているが、本当はいじめた・・ということかもしれないと、いつもの怜香らしくない回りくどい言い方に対して理恵は心の中でそう思っていた。
だが、ここは怜香が自分の口で全て話すまで待とうと理恵は考えた。
そして…、
「何を?どう、試したの?」と静かな声で理恵は言った。
「私が、狡を仕掛けた日にちに牧原直美が気づくかどうかです。それを試しました。」
「日にちを?」
まだ話の全容が見えてこない、理恵は辛抱強く怜香に問い続けることにした。
「その日にちが大切だった・・、ということね。」
「ええ、そうです。大事な商談がある日でしたから」
「怜香さんの今までのお話から私が想像するに・・。でも、彼女は間違えてしまった・・ということかしら?」
「ええ、そうです。見事に間違えました。」
「それは・・、間違っていたらごめんなさい。彼女が間違えたのは、怜香さんが狡を仕掛けたから・・と、とっていいのかしら」
「ええ、そうです。彼女の卓上カレンダーを1月から7月に変えたんです。1月と7月では7月の方が、日にちが一日前にずれているんです」
「まぁ、怜香さん、確かめてみてもいい?」
理恵は驚きながら怜香に聞き返した。
「ええ、どうぞ」
と言った怜香の声は冷静だ。自分が狡をしたとは言っているが、言葉とは裏腹に、怜香は牧原直美という人物に対しに悪いことをしたとは思っていないのだろうと理恵は思った。
理恵は立ち上がると、テーブル斜め前に置かれている卓上カレンダーをめくった。そして7月で手を止める。
「まぁ、本当ね。確かに一日前にずれているわ。」
よくもまぁこんな小さなことに気がつくことだと、理恵は今更ながら怜香の細かな目に感心した。
「でも、大切な商談だったんでしょ?一日ずれていたら大変なことになったでしょうに」と理恵が怜香に言うと…。
「ええ、でも、どちらに転んでもいいように手配はしておきましたから」
「そう」
ここで理恵は言葉を切ってから怜香に微笑んだ。
きっと、まだ怜香の心中には、なにかいい足りないことがあるはずだと思ったからだ。
「ええ、でも、もう一度よく考えてみたんです。本当に彼女は、牧原直美は、私の狡に引っかかったのかって…。もしかしたら、わざと引っかかったんじゃないのか」
「なんのなめに?」
「分かりません。分かりませんが、今は何となくですが、そんな気がするんです。それに、これは・・」
怜香が何か苦しそうに目線を下げ、目を少し細めるようにして考えこみ固く口を閉ざしたので今度は理恵もあえて聞き返さなかった。
―怜香さんの答えを待とうー
目の前の白いテーブルに目線を落として黙り込む怜香の邪魔をしてはいけないと、理恵は目線を怜香からそらせた。
その向こうに、グリーンのソファ下に丸くなっているチヤロが頭をもたげ理恵の視線を追っている。まるで、「私、まだ、静かにしている方がいい?」と理恵に問いかけているようだ。その姿に思わず理恵の目が優しく微笑んでいた。
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…名前の一字目に 『め』 の文字がある人…
☆独特の発想力を持った人☆
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