第一章 其山怜香   (二十八)

―落ち着くのよ、怜香―

怜香は、いま一楽の玄関近くにある化粧室にいた。

淡いピンク色で統一されたその空間は、ひんやりとしている。目の前の壁にある楕円形の鏡に映る怜香の顔は少し青ざめて見えた。


―どうして?私が、そこまでしなくてはいけないの?―


怜香は納得できなかった。

女将のお願い事は、こうだ。

「彼女は、慰謝料の受け渡しも、退職の手続きも、怜香さん一人が来て欲しい。怜香さんでなければダメだ。そうで無いのなら孝一との結婚を破談にすることも承知しないし、会社を辞めることも承知しない。出るところへ出て訴えると言うのよ。」


「其山くん、すまない。君にはなんの関係も無いことなのに・・」と課長は言った。

この話しを聞いて怜香は大きく肩で息をした。そして・・・、


「牧原さんは、なぜ?私を」

「それが分からないんだ。何度尋ねても、こちらの弁護士に条件を言うだけで理由は言わないらしい。女将も困ってね、僕に相談にきたんだよ。」

課長の困った顔を見ながら怜香は思った。


―大体これは、一楽の、あのバカ息子個人のことよ。私には何の関係もない。それに、会社を辞めるか辞めないかは、牧原直美個人のこと、これも私には関係ないことよー

怜香は少し落ち着きたくて二人に断り部屋を出た。そして、この化粧室に来たが、納得出来ない気持ちは変わらない。むしろ意味の分からない怒りさえ覚える。


そして怜香はゆっくりとバックの中から香水ペンダントをだし、理恵に作ってもらったブレンドオイルを白い桜の花が刺繍してあるハンカチに一滴たらした。

そのハンカチで、口と鼻を覆うと深呼吸をする。

鼻孔に香りが広がる。

怜香はこの香りが気に入っている。


初めてこの香りを嗅いだときは驚いた。

木肌の香りが鼻の奥に真っ直ぐ入り込み、深い森の静けさとともに鋭く身体を目覚めさせ背筋がピンと伸びるような気がした。


が、


―アロマオイルは、花の香りばかりだと誤解していたわ。でも、これじゃ・・?地味すぎない?―

自分のイメージで作ってもらった香りが、あまりにも地味すぎる香りだったので怜香はちょっと不満になった。



―もう一度嗅げば違う香りがするのかしら?―

そう思い直してゆっくりと目を瞑り、もう一度『クレール・レイカ』の香りを深く嗅いだ。すると不思議なことに、木肌の香りは小さな見えない点のように感じられ、やがて遠くに去るように消えていった。


次に、瞼の向こうに橙色の光が差し込み、さっきまで感じていた深い森の静けさは消え、その強烈な橙色の光はまるで元気な朝の訪れのように力を感じさせてくれる。そして同時に甘い香りが身体いっぱいに広がった。



―おいしそう、お腹がすいてきたわ、新しい朝の訪れね・・―

本当に不思議だが、この新しい一日の始まりには、美味しい朝ご飯をお腹いっぱいに食べて元気に力強く生きていこうと思わせてくれる。

それに、橙色の光を降り注いでくれる太陽は眩しいくらい高いのだから…。



あなたの選んだ道は何処までも目の前に広がり続いている。

さあ、力強く進みなさいと言いたげに、『クレール・レイカ』の香りは怜香の身体の奥から生きていく元気を目覚めさせてくれたように思えた。



―不思議だわ、三つの香りが混ざり合っても個性がある。それぞれに持つ香りが死んではいない。それどころか、それぞれが互いを尊重し合い、思い合い、逆に時間差を狙ったように香ってくる。私を優しく包み込んでくれている。流石、理恵さんの腕は違うわ。ありがとう、理恵さん。ー



怜香は、素直に、理恵に対して感謝の気持ちを心の言葉にしていた。

少し気持ちが落ち着いた。

それに、なぜか今日は不思議な事に香りを嗅いだあと、ほんの少しだが頭の後ろがチクチクする。



―ちょっと思い切り吸い過ぎたかしらー

なんだか少し、今日の香りに対する身体の反応が刺激的すぎる。もしかしたら心の怒りが大きいからかもしれない。


―そういえば理恵さんが言っていたわよね。体調と言うか、感情と言うか・・。香りは、どんな小さなことにも反応するって・・―

やはり今日のこの話は、怜香にとって不機嫌きわまりないことなのだ。

そうに違いない。


―断ろう…、それがいいー


その結果、一楽の女将や課長に恨まれても仕方ない。

ここ数日、理恵にブレンドしてもらった香りのお陰で、怜香は心に波風が立たずに優しい気持ちになれる自分を感じていた。


このまま行けば自分の中にある「忄(りっしんべん)」のきつい心から、もう一つの「心」に穏やかに移れそうな気がしていた矢先だ。

だから怜香は、この機会を牧原直美に邪魔されたくはなかったし、逃したくはなかった。



―悪いけど、人の幸せより。まず、自分の幸せが先よー


大きく深呼吸した怜香は、木製のドアを開けて細長い廊下を歩く。

化粧室の位置を示す薄紫の細いのれんを左手であげ、外に出ようとしたその目の前に、いつもの紺色のはっぴ姿の孝一が床に正座して両手をつき、頭を垂れて下を向き小刻みに震えていた。




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…名前の一字目に 『み』 の文字がある人…


☆場を明るくまとめられる人☆




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