第一章 其山怜香 (二十七)
相変わらず牧原直美は病気を理由に会社を休んでいるらしい。
そんななか怜香は、一楽の女将に呼ばれて女将の弟で怜香の上司である課長とともに一楽に来ていた。
まだ、客を迎えるには早すぎる時間であることから店の中は静まりかえっている。微かに庭の方から聞こえる鹿威しのカーンという音が、静かな空気を揺らしていた。
「ごめんなさいね。」のひと言とともに一楽の女将、
ほんの少し開け放たれた障子の向こうには、背の高い楓の若葉が生き生きとそよ風に揺れているのが見える。
やがてその若葉の色がスルリと白い色にかわり、にこやかに微笑む美也が振りかえると、畳の上を滑るようにして歩き、怜香の正面に座る課長の横にゆっくりと座った。
怜香も目の前の女将、佐伯美也に向けてにこやかに微笑んだ。
怜香はこのとき、自分でもとても柔らかな笑顔で返せたと思った。以前の綺麗だが、どこか冷たい笑顔が温かみのある優しい笑顔になっているような気がした。
あの日から、理恵に自分のブレンドオイルを作ってもらった日から、怜香は何処にでもそれを持ち歩いている。
自分の中に傲慢な心が生まれそうだと思うとき、怜香はそっと席を立ち、その香りを自分の為に吸い込むようにしていた。
「実は、怜香さんに折り入ってお願いしたいことがあるの」と女将は言った。
「なんでしょうか?」と怜香がこたえる。
「とても、頼みにくいことなのだけど・・・。ねぇー」
と、女将は助けを求めるように横に座る課長の方を見た。すると課長は言いにくそうに軽く咳払いしてから話し出した。
「実は、牧原くんのことなんだがね。」
「はい」
「牧原くんと、うちの孝一の件は破談になった。それで牧原くんは会社も辞めることになった。」
「ええ」
―それと、私の何が関係あるのかしら?―
「それで、牧原くんは婚約破棄に対する慰謝料を請求していてね。まあ、勿論、こちらとしては後々のことを考えても、ここで、そのことで牧原くんと争うつもりはないんだ。支払うことにしている。」
「ええ」
―とても、プライベートなことを?なぜ、私に・・―
何となく嫌な予感がする・・と怜香の心が苦く波立つ。
そして課長は「ただ・・」と言ったきり黙ってしまった。
すると女将の美也が、無理矢理何かを飲み込んでからというように下を向いて・・、素早く顔を上げた。
「ただね、向こうが条件をつけてきたの。それじゃないと受け取らないって言うのよ、破談も退職も承知しないと言うのよ。」
美也が、ほとほと困ったという顔で怜香を見た。
この時、なぜか怜香の目に、目の前の漆塗りの大きな座卓テーブルが異様に黒光りして、女将と課長の顔を下からくっきりと映し出しているように思えてならなかった。
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…名前の一字目に 『ま』 の文字がある人…
☆母性を持った、優しい人☆
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