第一章 其山怜香   (十八)

怜香の天敵とあだ名されている広瀬ひろせ恵子けいこが新入社員の頃、好きになった相手は同じ総務の牛窓うしまど琢実たくみだった。


その頃の広瀬恵子は今ほど太ってはいなかった。

それどころかガリガリのガリ子で、太い眉の下にはれぼったい一重の目と、あぐらをかいた低い鼻、はっきりと語尾の最後まで聞こえない弱々しいしゃべり方がおとなしすぎるのを通り越して暗すぎると眉をひそめられ、陰で骸骨さんと呼ばれていた。


丁度、今から6年前のことだ。

それに、何をやっても人の倍はかかる恵子に同性の先輩達はさじを投げていた。


だが入社8年目のベテラン、牛窓だけは恵子が仕事のことで質問すると嫌がらずに何度でも丁寧に教えてくれた。


だかそれは、恵子に好意を持っているのではなくて、牛窓琢実が人一倍仕事に対してまじめで、誰かの仕事の遅れは自分の遅れに繫がる、ひいては会社全体の遅れに繫がる。

それゆえに分からないことを聞いてくれるのは大変望ましい、という考え方を持っていたからに他ならない。


まして分からないことを分からないままにして、聞かずにやってしまい、後で訂正をすることの方が遥かに時間の無駄だと牛窓は考えていたからだ。

だから、多少堅苦しいところはあるが、大変まじめな牛窓は上司の受けが良かった。


それだけに、恵子に対して牛窓個人はなんの思いも無かった。

しいていうなら仕事覚えの良くないバカな女、いや、女という言葉の意識さえもなかった。


だが、一緒に机を並べて仕事をする以上はスムーズに流れを運びたい。

その為にも間違いは最小限にだ。

よって同じ質問を恵子から幾度となくされても、牛窓は丁寧に答えていた。


時々、牛窓は〝早く覚えろ、このバカ〟と恵子に対して口には出さないが心の中で言いたくなることはあった。

が、これは仕事だと割り切って、根がまじめな牛窓はムクムクとわき上がりそうになる嫌な思いに無理矢理フタをしていた。



そんななか昼休みの更衣室で、たまたま忘れ物を取りに来た入社3年目の先輩が一人ポッンと座っている恵子に声をかけてきた。


「どうしたの?広瀬さん」

「あっ、先輩・・。ちょっと風邪気味みたいで、みんなの迷惑にならない様に、ここなら少し休めるかなと思って」


「そう、大丈夫?辛そうね、早退させてもらったら?」

「ええ、でも・・」

「あっ、そうか。今日は課長も部長もいないんだ。」

「ええ」


恵子も早退させてもらおうかとは考えていたが、急に取引先に不幸があり課長も部長も大慌てでバタバタと出て行った。


それをわざわざ後を追いかけて早退させてください、とは流石の恵子もいいづらくて午前中を何とかやり過ごしたのだった。


「牛窓さんに頼めば?」

その先輩が恵子に対して何気なく言ったひと言だった。


これまでにも課長や部長がいないときは牛窓に言えば早退できた。

もし、何らかの理由で責任者二人がいないときの連絡体制のようなものだ。

それに牛窓はまじめで上から信頼されていたので、それくらいの権限はあった。


が、恵子が「えっ」と急に恥ずかしそうに頬を赤らめたので、この三年上の先輩は嫌な女のいたずら心がムズムズと動いて…、


「牛窓さん、恵子ちゃんのこと好きみたいだから、きっと二つ返事よ。安心していいわ。好きな人の為に骨折りしてくれるわよ。」と心の中では舌をだしながら、でも顔はまじめに恵子の身体を気遣うようにしながら、恵子の方を向いて真剣に話しかけていた。



このことが恵子の中で決定打になった。

日頃から仕事の遅い、覚えの悪い恵子に対して牛窓の丁寧な対応を、恵子は心の中でもしかしたら牛窓は、自分に気があるのではないかと勘違いしだしていた。


そして、それを人の口から言われたことで、余計に自信を持ったのだ。


それに、この日、体調の悪いことを牛窓に告げると・・。

「そうですか、それはいけませんね。帰っていいですよ。部長と課長には僕から伝えておきますから、広瀬さんは帰って薬を飲んで休んだ方がいい」

と、ぶっきらぼうだが最後に「お大事に」と優しい言葉を添えてくれた。


それから二日休んで出社したが、誰からも責められなかった。

逆に課長から「もう、いいのか?」と気遣いある言葉をかけてもらい・・。


―これはきっと、牛窓さんが私の為に骨折りしてくれたからだー

と、恵子は、そう信じて疑わなかった。



そんな恵子がウキウキしだした翌週の出来事だった。

「誰か、この書類を秘書課の其山さんに持っていってくれないか?」


課長の言葉が言い終わるか終わらないうちに、ぱっと顔を上げた牛窓が「ぼォ、僕が行きます。」と、いつになく慌てて返事したかと思うと、もう既に課長のデスク前に駆け寄っていた。


それに、ここから見える牛窓の頬は薄らとピンクがかって見える。

いぶかしがる恵子に、隣に座る同期入社の山本やまもと沙奈恵さなえが小さな声で「牛窓さん、秘書課の怜香嬢に片思いらしいよ。」とクスリと肩を小さく上げて、なんだかねと言うようにおかしそうに笑いかけて来た。


―そんなはずはない。彼が好きな相手は、私だ、ー


恵子は咄嗟に沙奈恵を睨んだ。

睨まれた沙奈恵は訳がわからず、〝なによぉ〟と小さく悪態をついて、ぷっと軽く頬を膨らませ、目の前にあるパソコンのキーボードに力を込めて不機嫌に叩き始めた。



課長から受け取った書類を持って牛窓は慌てたように歩き出す。その途中で自分の席の飛び出た椅子をガチャガチャいわせて不器用に直した。

まるで、その時間さえ惜しいというように・・。


そして、恵子や沙奈恵には目もくれずに頬を染めた牛窓は、しっかりと書類を胸の前に固く握り、真っ直ぐ前だけを見て、前のめりになりながら急ぎ足で出て行った。




================================================================

…名前の一字目に 『な』 の文字がある人…


☆気配りが出来る、明るい人☆




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る