第一章 其山怜香   (十五)

 怜香はいま理恵のサロンにいた。

 食事を終えた怜香は駅に向かう途中で手土産にチョコレートを買った。それから中央線の快速に乗り、都心から約一時間の指定された駅に向かった。


 駅に着くと、北側改札口を出て左手前で待っていた理恵が運転する紺色の自動車に乗り込んだ。そして連れてこられたのが彼女のサロンがある自宅だった。


 玄関前の階段を軽やかに数段上がり、扉を開けると瞳の綺麗な猫が怜香を優雅にお出迎えしてくれた。

 それから玄関左手直ぐの階段を上がり、怜香は理恵の自宅サロンに通された。


 部屋の中に入った怜香はゆっくりと部屋の奥に進み、窓際に置かれた可愛らしいグリーンの二人がけソファに座る。

 するとさっきのまん丸な瞳の綺麗な彼女が、ほんの少し薄らとブルーグレーがかった白くて長い毛を優雅に揺らしやってくる。


 優雅な動きで近づいてきた彼女は、怜香の足元でゆっくりと伸びをしてから丸くなり、小さく尖った綺麗な幾つもの白い歯を見せて大きなあくびをした。

 それから顔を真っ直ぐあげて、綺麗なその瞳を不思議そうに怜香に向けた。



「理恵さんのサロンは、ご自宅だったんですね」

「ええ、『ぷち・ぷち・ぷち』は、小さな、小さな私のサロン、私のお家へようこそ、どうぞキュッと身構えた心の手足をゆっくりと広げてくださいね・・という意味なの」


「心の手足を、ゆっくりと・・・」

 怜香は理恵が入れてくれた目の前のハーブティーを一口飲んで、もう一度理恵の言った言葉を繰り返した。


 そして、決心したように怜香は理恵の目を捉えて言った。

「理恵さん、まずは私の話を聞いて頂けますか?」




 去年のクリスマスイブの前夜。

 怜香は3歳年下の・・、とは言っても相手は怜香のことを自分よりも年下だと思っている。

 例のごとく見た目で怜香の年齢を誤解したのだ。


 だが怜香も、しいて本当の年齢を相手に伝える気はなかった。結婚してしまえばこちらのものと思ってもいたし・・。

 それに、もっと自分に合う相手がいるのでは…、などとよこしまな心があったせいだとも言える。


 とにかく、この日は恋人の近藤コンドウ裕樹ユウキとホテルの部屋にいた。

 チェックインの時間とともにはいり、ベッドでの甘いひとときを終えて怜香がシャワーを済ませて出てくると、裕樹は既に着替え終えている。



「怜香、悪いけど、俺、帰るよ。」

 バズタオルを巻いた怜香は無言である。

 裕樹は、テーブルにあるシャンパンのグラスに残った琥珀色の液体を一気に飲み干すと・・。グラスを持ったまま窓辺に立った。

 怜香に背を向けたのだ。


「俺、結婚するわ。」

「えっ?」


 流石にこの言葉に驚いた怜香は不用意に声を上げた。だが、裕樹の声は抑揚が無く冷たい音になって聞こえてくる。


「実は俺、二股かけていた。けど、昨日までは、いや、正確には昨日の昼までは、俺、今日怜香にプロポーズするつもりでいた。」

「どういうこと?」

「だから、もう一人の方と結婚する。」


 裕樹の言葉に怜香の口は〝なぜ?〟の言葉が出てこない。


「昨日、俺のところに名前は言わなかったが、すっげぇー不細工な太った女が来て。俺が怜香に騙されている、なんて言うんだ。前に自分の彼氏を怜香に盗られたとも言っていたな。初めはこのブス、なに?嘘ついてんだよ?怜香に対する逆恨みか・・と相手にしなかった。けどさぁー、怜香。おまえ、俺のこと本当に騙してたんだろう?」


「なにを?」


「年だよ、年、その不細工な女が怜香は三十五歳だ。二十八なんかじゃない。〝あなた、健康な子どもが欲しいんでしょ〟とか何とか喚いていたな。それから怜香の生年月日が書かれた書類のコピーを見せてくれたよ。ご丁寧に写真付きだったぜ。」


 裕樹は、にやりと笑って振り返るとグラスをテーブルにコッンと置いた。


「まぁそういうことだから、俺、帰るわ。ここでの支払いはカードで空の伝票にサインしておくから好きな時に帰っていいよ。なんなら食事して帰ってもいいし、怜香の気の済むようにしてくれ、それだけ。じゃ、元気でな!」


 裕樹の口ぶりはすこぶるあっさりしている。

 さっきまでの情熱など何処にもない。同じ人間か?と怜香は一瞬分からなくなった。



「まって、そのもう一人の相手は幾つなの?」


「二十六、正真正銘の二十六歳だ。怜香、悪いけど俺、子ども欲しいんだわ。それも元気な男の子が欲しいんだわぁ。それに俺、一人っ子だったから出来れば最低でも3人は欲しい。この条件は譲れない。だから、怜香とは結婚出来ない。」


「三十五歳の私には産めないということ?」


「産めないとはいってない。可能性が低くなると言っているんだ。それに最低3人に女の子も欲しい。俺、何度も話したよな、そのことは・・、それに怜香、嘘の年で俺を騙していたのはおまえだぜ、結婚する前から騙される夫になるなんて分かっていながら、そんなの選ぶバカな男はいないだろ?」


「そう」


「ああ、悪い。それに怜香には俺なんかよりきっと相応しい相手がいるよ」


 裕樹はそう言うと、もう怜香のことなど忘れたように、その傍らを通り過ぎるときにも怜香を見ようともしない。


 そしてゆっくりと半円を描くように振り返った怜香の目線の先には、裕樹の後ろ姿しか見えなかった。

 

 やがてドアが・・、パタンと小さく閉まった。




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…名前の一字目に 『た』 の文字がある人…


☆自立した、頼りがいのある人☆




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