第一章 其山怜香   (十)


「さあ、どうぞ、どうぞ、お上がりください。お足元に気をつけてお上がりください。お客様の履きものは私が預かりますのでご安心を、女将も直ぐに参ります」


 あの頃に比べれば孝一の下足番係も随分と板についてきた。

 履きものを預かる人がいるなどと思ってもみなかった怜香の両親は、戸惑いながらも愛想のいい孝一の笑顔につられて笑っている。



―どうやら、今日は何も起こらないようねー


 怜香が安心して、そう思った次の瞬間だった。


 何処を、どうしたらそうなるのかが分からないが、孝一が前のめりにトトトォ・・と、まるでコマ送りの白黒画像を見ているように滑っていき、怜香の両親が立つ足元の床の角に顔をぶつけた。


一同、その場に凍り付いた。


 迎えに出ていた仲居頭の葉月と、まだ若い仲居は目を見開いて両手で口を覆い、声も出ない。で、必死の笑顔を作り立ち上がった孝一の顔からは、ひび割れたメガネが斜めにずれ、鼻からはダラダラと血が出ていた。


「何やってるの、バカね、どうしてこんな平らなところで転ぶのよ!」



 怜香はバックからハンカチを出し、口が開いたままのバックを「お母さん、ちょっと持ってて」「ええ?ええ・・」と怜香の母親は目の前の出来事に驚きすぎて、怜香の言われるまま手を出しバックを受け取る。


 怜香はストッキングをはいただけの素足に近いままで、冷たい土間に飛び降りると孝一の前に素早く回り込んだ。




「ちょっと、見せなさい」

「あっ、あ・・、でも、きれいなハンカチが」


 孝一は、怜香の手にあるピンクの大きな花柄のハンカチを見つめて言った。

その言葉に、またも怜香がイライラしながら小さく怒鳴る。



「ハンカチはデパートに行けば、いくらでも売っているの。あなたは売っていないでしょ!分かったら、さっさとここに座りなさい。」




―あぁ、イライラする、このバカ息子。そのうえ、なんで私がここまでしなきゃいけいのよ!四の五の言っていないでおとなしく私の言うことを聞きなさい。ー


「あっ、あっ、はい!」

 怜香の心の声が聞こえたのか、孝一は素直に怜香が指さした怜香の両親が一歩後ろに退いて出来たスペースに腰をおろす。



 怜香が、孝一のあごを左手で上を向かせて、ひび割れたメガネを外した。


 そして顔を覗き込み、―あら、意外、小さいけど、綺麗な瞳・・―と余計なことをチラリと頭の隅で思いながら、怜香は素早くハンカチで孝一の鼻を押さえた。

ピンク色の花が紅く染まる。



「ここ、痛い?」

「いえ・・」


「そう、なら、鼻の骨は、多分、折れていないと思うけど。念のためにレントゲンを撮って貰う方がいいわね」


 怜香は、そう言うと目の前の仲居頭の葉月に、孝一を直ぐに病院に連れて行く手配を頼んだ。


「はい、」という力強い返事をして、彼女がバタバタと奥に消えると同時に一楽の女将が急ぎ足で出てきた。




「怜香さん、まぁー、どうしましょう。来られるそうそう、このような粗相をしてしまって・・」


「母さん、鼻は折れていないって怜香さんが・・」




―なに、嬉しそうに笑っているのよ?このバカ息子は、もしかして打ったのは鼻じゃなくて頭のほう?―


 怜香の目に顔を少し上げたままの格好で、目で母親の姿を見つけると嬉しそうに笑う孝一が言葉を言い終わらないうちに、奥から番頭がかけてきて早口で言った。



「女将、あとは私が」


「そぉ、そうね、お願いしましたよ。」

 いつも冷静な女将が色をなくしている。



 余程、このバカ息子が可愛いのだろう。

 まあ無理はないか、会長を通しての去年の、あのとんでもないお願いを考えれば誰でも理解は出来ると、目の前の光景を見ながら、暖簾を微かに揺らす冷たい風とともに、急に土の冷たさが足裏を通して感じられた怜香は土間に素足で立つ自分の姿に気がついた。


〝嫌だ、驚きの出来事とはいっても、私、今、すごくお行儀の悪い格好をしている。それに、なんで、このバカ息子の為にここまでしてしまったのかしら?〟と自分の行動にいぶかりながらも、怜香の冷静な目は、心は、女将の孝一に対する母としての強い思いを確信していた。




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