第一章 其山怜香   (八)

「怜香、本当にいいのか?」

「ええ、向こうがそうしてほしいと言ってきたんだから、いいのよ。お父さん。」


「でも、お高いんでしょ?そこの料理」

「ええ、そうね。高いわね。でも、美味しいわよ。お母さん、目で楽しめて、口で喜んで・・。お腹が大満足!」


「あら、嬉しい。なんだか、一日行くのを我慢しただけで得したわね、あなた」

「おまえは、呑気でいいなー」

「あら、だって、せっかく行くなら楽しい方がいいじゃない。それに、気兼ねなく食べたいし・・」


「そうよ、お父さん。どうせなら、遠慮しながらドキドキして食べるより、相手の好意に甘えて、時間を楽しんで、美味しく、満足して帰りましょうよ。」

「そうだな・・、怜香の言うとおりだな。せっかくのご厚意だ、じゃ、遠慮なく頂いて帰るか。それに、高広に自慢してやれる。」と父は嬉しそうに言った。


「あら、あなた、逆にうらやましがられて、今度は自分と家族も連れて行けと迫られるわよ。その時は、あなたのポケットマネーで支払ってね。」

「そうか、それは・・、困るな。」


怜香の父は、そんなことになれば自分の財布が破産してしまうから、兄夫婦には、このことは秘密にしておこうと、おかしそうに笑って怜香と母に口止めした。


一楽は、静かな住宅街にあった。

およそ看板などというものはないから、知らない人が見たら黒い板張りの塀が延々と続く和風造りの古い大きなお屋敷という認識しかないだろう。


一楽の玄関入り口へは大通りから一本中に入った横道から入る。そこから玉砂利の引かれた車入れの場所まで怜香達はタクシーで乗り付けた。

丁度迎えに出てきてくれた、にこやかな好々爺とともに足元に点々と続く真四角に切られた灰色の石畳に沿って歩いて行くと・・。


深い紺色に染められた大きな暖簾をくぐり、広い土間に立った。目の前には毎日丁寧に磨かれた黒光りする高床が見える。そこから斜め左手向こうにロの字を書くように建てられた二階建て建物、一楽の中庭が広縁の向こうに見える。


そこは四季の色が小さく楽しめる、手入れされた木々や花が美しい日本庭園の中庭だ。怜香はこの庭が気に入っていた。


この中庭を挟んで向かって右手が料亭『一楽』の店であり、左手奥に続く廊下を真っ直ぐ進むと板場と母屋の方に続いている、平屋建て母屋奥の一角には特別な顧客用に小さな茶室がひっそりと佇んでいた。


料亭、一楽。

そこには、なぜか懐かしい昔の日本の優しい空気が感じられた。


その床の上を滑るように前に出て、素早く一段下りてから土間に置かれていた履きものに足を入れ、大きな身体を丁寧にかがめて怜香たちの前に立ち、「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」の声が気持ちよく響く。


出迎えてくれたのは、のれんと同じ深い紺色に「一楽」と白抜きで染められたはっぴを着た、空豆に小さな鼻と口をつけて、笑うと糸のように細くなる目が瓶底メガネの奥に優しく見える。

お世辞にも男前とは言えない。


だが、どこか愛嬌があるこの屋の跡取り息子、怜香より5歳年下の佐伯サエキ孝一コウイチ、その人であった。


―あら、全然、打ちひしがれていないわね。元気そのものに見えるけど?私の勘違い?―


昨日の直美の失態で、昨夜、叔父である怜香の上司、宮前課長からこの結婚は許さないと説教されたはずだ。


はずだから、今日あたりはそのことに打ちひしがれて、このバカ息子は寝込んでいるものとばかり怜香は思っていた。だから、目の前の、明らかに機嫌のいいにこやかな孝一に対して怜香は狐につままれたような気がして不思議に思った。


元々、怜香も孝一のことをそれほどよく知っているわけではない。初め、確か5年前くらいだろうか、下足番の仕事をしている孝一を一楽の跡取り息子だと知ったのは、ごく最近のことだ。


とにかく、その頃の孝一は、どうしてこんな気の利かないというか、気が回らないというか。おまけに、全てが後手後手に回る鈍くささ・・。

本来の、客の靴を出し入れする仕事でさえろくに出来ない者を、一楽ほどの料亭がなぜ下足番としておいているのかが怜香には分からなかった。


だが不思議なことに、客も従業員も、皆、彼に優しい。

この、気の利かない下足番に対して、えらく寛容なのだ。


「あっ、いい、いい。いいんだよ。ゆっくりで・・」と、帰り際に靴が出てくるのを待つ客は、みんな、なぜか?優しい声と笑顔である。それとは反対にこの下足番は、一人大汗をかき、ひょろ高い身体を右往左往させている。


―たかが靴の出し入れに大げさな、バカじゃないのー


怜香はその姿を見るたび、この下足番に軽蔑のまなざしを向けていた。

が、不思議なことにこの下足番、なぜか怜香の靴だけは素早く出した。

これも、怜香には理解できなかった。


だから、やれば出来るのに、なぜしない。

だから、この男は、きっとなまくらな男だ、ナマケモノだと、怜香の頭にインプットされてしまっていた。そして怜香の頭の中に完全なるバカ息子として完璧なまでに記憶されたのは、去年の直美の一件だった。




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名前の一字目に 『け』 の文字がある人。


☆親切で、社交的な人☆




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