第一章 其山怜香 (七)
翌朝、秘書室に直美の姿はなかった。ドアを開け、さりげなく直美の席を見た怜香のもとに笠原がそっと近づいてきて囁いた。
「今朝早く、増本さんの携帯に、あのバカから電話があったそうです。」
「ええ、なんて?」
「わざとらしくコンコン咳をして、『風邪を引いたので休ませてください。』だったそうです。」
「そうなの、増本さんも気の毒ね。」
〝ええ、確かに、増本さんは大人しくて優しいからターゲットになったんですよ〟と笠原の目の奥に気の毒そうな言葉が並んでいた。
「はい、僕もそう思います。それに増本さんも流石に昨日のことはおかしいだろうと、お小言の一つでも言ってやろうかと思ったらしいんですけど、反対に、あのバカの愚痴を聞かされたら自分が会社に行けなくなりそうに思えて〝お大事に〟とひと言いってから素早く切ったそうです。」
「そう、それがいいわね。」
怜香は、笠原の隣の席で静かにパソコンに向かっている
だから笠原の中に出てくる〝あのバカ〟は、絢子の話したことに笠原が自分の気持ちを言葉にしたのだろう
絢子は切れ長の目をした涼やかな美人だ。その穏やかな性格を怜香も気に入っている。ただ残念なことに華がない。その分、どうしても足元の壁に掛けられた美しい花にしか見えないのだ。
だから、よほど注意して見ていないと誰にも気づかれずに通り過ぎられてしまう花だ。
「増本さん、今朝は大変だったわね」
「あっ、怜香さん。いえ、きっと彼女も困ってどうしていいかわからなかったんでしょうから・・」と増本絢子は寂しげに笑った。
―それ、その笑顔!もう少し明るく笑えないの?―
と言いたいが言えない。
あまりにも寂しげで、そんなことを言えば壊れてしまいそうに思えるからだ。
だから、誰に対しても堂々と自分の意見を言える怜香だが、この増本絢子だけには一歩引いてしまうところがあった。
・・バタン・・・と勢いよくドアが開いて課長が忙しなく入ってきた。
「あっ、其山君、昨日はすまなかったね。一楽の女将も、うちの会長に対して顔が立ったと喜んでいたよ。今日の、ご両親の記念の席は喜んで貰えるように心を尽くすと言っていたよ。」
「ありがとうございます。両親も喜びます。」
「それから、今日の費用は一楽が全て持つそうだ。」
「いえ、それは、いけません。」
「いや、いや、遠慮しなくていい。昨日のことで一楽は、うちとの信頼関係が壊れるかどうかの瀬戸際だったんだ。それを、其山君のご両親にとって大事な記念日を、一日ずらして貰うことで助かったんだ。今後のことを考えれば当然の申し入れだよ。」
「ですが、それではあまりにも図々しいかと…」
「いいじゃないか、たまには君も図々しくなってもいいと思うよ。」
課長の、怜香を〝くん〟付けの名字ではなく〝君も〟が出たところで怜香はこれ以上この件を長引かせるのは良くないと判断した。
「かしこまりました。それでは、ありがたく女将の思いやりの心を頂戴致します。」
「そうか、そうしてくれるか。うれしいよ、其山君。そうそう、君の席も用意してあると一楽の女将がいっていたから、今日は、ご両親との時間に間に合うように早く帰るといい。」
課長は、昨日の苦虫をかみつぶした顔とは違い、上機嫌の笑顔を見せて言った。
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名前の一字目に 『く』 の文字がある人。
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