第一章 其山怜香 (六)
さて、そろそろ帰りますか・・、怜香は腕時計を見た。女性らしい、ほっそりとした白い手に似合うホワイトシルバーに輝くクリスタルハートを、銀の鎖で一つずつ繋いだブレスレット型の腕時計の針は午後4時ちょっと過ぎを示していた。
今日は、あのバカギャルに頼んだ大事な商談が開かれる日だ。今からだと社に 帰り着くのは、5時少し前・・。
「まぁ、最悪、間に合う時間ね」と呟いた怜香の心はウキウキしていた。
怜香が会社に着いたのは5時、15分前、思ったより早く着いた。
受付前を軽く頭を下げて通り、奥のエレベーターで秘書課がある最上階に上がる。扉が開きシーンと静まりかえった廊下をゆっくりと歩いた。
そして、そっと秘書課の扉を開けると・・・。
「君は!一体、何をしているんだー。いや、なにをしていたんだ!」
課長が受話器を持ったまま、怒りで顔が真っ赤になり全身でワナワナと震えていた。その前で直美がまるで子どもみたいに、エッエッ・・と、両手を派手に使い泣いている。
「どうしたの?」
総立ちになっている他のメンバーで、一番入り口に近い笠原に怜香はそっと声をかけた。
「あっ、其山先輩。牧原さんが、今日の商談の為に予約した一楽なんですが・・」
「ええ、一楽が、どうかしたの?」
「それが、日にちを、一日間違えていたんです」
「えっ?日にちを?だって、水曜日よ。今日よ、どうして間違えるの?」
「それが・・、」
といいながら笠原は、目の前にある自分のカレンダーを素早く手に取ると・・。パラパラとめくった。そして…、
「ほら、ここ」
笠原が示したのは7月の第四水曜日の二十二日。
1月のカレンダーだと第四水曜日は、二十一日とをなる。つまり、第四水曜日が一日前にずれていることになる。
「まさか・・」
バカじゃない?の言葉が続きそうになった。が、代わりに笠原が小さな声で・・。
「バカです、あの女。其山さんに、あれほど日にちを間違えないようにって言われていたのに・・、月を間違えていたんです。
おまけに一楽の女将が今日は満室で、どう転んでも空き部屋がない。明日の予約もどうにかして入れたのだから・・って、今日はもうどうにもならない。
けど相手が既に来ていて、取りあえずこの時間に空いている部屋には通したが…。それも後30分もすれば出て貰わないといけない。それに料理がねぇ。
だって、そうでしょ?予約は、明日なんだから間に合いませんよ。それで女将が困り果てて、今、どうするかの相談の電話が課長にかかったんです」
なんともはや、直美がこれほど上手く怜香の罠に引っかかってくれるとは思わなかった。
―お見事だわ。これほど簡単に引っかかるとは、やはり馬よりもバカねー
―けど、これも、会社と一楽の将来を考えれば仕方のない事よー
それが、怜香の下した決断だった。
直美が怜香の仕掛けたほんの小さな罠に気がつくか、気がつかないかの賭だった。後悔などしていない。
自らの立場を考えて行動するその覚悟もない。あるのは安易な心。
そんな敗者の道を易々と選んだバカな女の為に、会社共々共倒れをする気はない。後は仕上げにかかるだけのことだ。
「だって、カレンダーが・・」と直美は舌足らずな言葉をわざと使い言い訳した。
「君は!カレンダーのせいにするのか!物は、人に使われているんだ。人が、物に使われているんじゃない。君のような人間は、孝一の妻に相応しくない!いや、一楽の女将にはなれない。ならさない。僕は、絶対に許さないからね。覚悟しておきたまえ」
「そんなぁー、ひどいぃー・・」
「何が!ひどいだ、ひどいと言いたいのはこちらの方だ。これで、この大事な商談が流れたらどうするんだ。それだけじゃない。
これは結果的に、うちの会長の顔に泥を塗ることになるんだ。それがどういうことを意味するのか、君には理解出来ているのか!
そして、君に、その重大な責任と、莫大な損害額を賠償できるだけの覚悟があるのか!こんな簡単なことも出来ない人間が、そのうえ泣くしか脳のない人間が、明らかに社会人としても失格だ。
まして人の気持ちの一歩も二歩も先を読んで気配りすることが心情の、料亭の女将など出来るはずがない!いや、到底、務まりはしない。」
課長は直美に向かい、最後はそれこそドアという壁を超えて廊下に響き渡るほどの大声で怒鳴った。
実は、課長は一楽の女将の弟だ。可愛い甥に泣きつかれて何とか直美との結婚を姉の女将に承諾させるために骨を折った。
が、しかし…、その結果がこれである。
だいたい甘いのだ。世の男は、若いキャピキャピギャルに・・甘いのだと、怜香は直美の向こうにいる鬼のように怒った顔の課長を冷たい目でチラリと見た。
さて、もう一押ししますか、と怜香がおもむろに携帯電話を取り出した。
急に電話をかける怜香の姿を見て、隣にいた笠原と他のメンバーも不思議そうな顔で見ている。そして、途中から耳をそばだたせた。
「もしもし、お母さん。今、どこ?ええ、ええ、良かった。まだ出てないのね。ごめんなさい。一楽での食事は、明日にしてくれない?ええ、それがね。今、会社で手違いが起こって、どうしても今すぐ一楽の座敷が必要なのよ。うん、ごめん。
今日の夕飯はホテルのレストランでお願いできない?ごめんねー。本当、ごめん、ごめんねー。今日の夕食も、明日の一楽も、私がおごるから・・。
それに帰るのは一日延ばして、明日はうちに泊まればいいじゃない。ええ、ええ、そう、お願い。うん、うん、ありがとう、お母さん、恩にきるわ。お父さんにもよろしく伝えといて、じゃ後でね。」
電話を切った怜香に部屋中の目が注がれる。
「其山君・・」
課長が、ほうけたように呟いた。
「課長、その電話、一楽の女将さんですか?まだ、繫がっています?」
「あっ!ああ、そうだ。まだ、繫がっている。」
「でしたら、『私が両親の結婚記念日に予約していた席を回してください。』と伝えてもらえますか?」
「いいのかね?そんな大事な日を・・」
課長の顔が、ほっとしながらも、すまなさそうに目の奥が歪む。
「ええ、その代わり、牧原さんが間違えた明日と交換してください。」
「分かった。助かるよ、其山君。」
課長は慌てて受話器を耳に当てると、目の前の直美の事などは無視して、一楽の女将と話し合っている。
ピンと張り詰めていた空気がここで一気に和んだ。
やれやれというように、笠原が優しい目で笑いかけてきた。怜香も笑い返して自分の席へと向かう。
と、課長の机の前で子どものように肘をあげて派手に涙を両手で拭いていた直美が、「先輩~ぃ・・」と甘えた声を出しながら、チョコチョコと幼児が駆け寄るように怜香の前に前進してきた。
―なに?しているの?この子は、いったい、―
大きく息を吸うと、怜香はゆっくりと、はっきりと、よく通る声で言った。
「牧原さん、私も課長の意見に賛成よ。先週、あなた、お手洗いで人の書類をのぞき見て、そこに書かれていた個人情報を同僚二人と大きな声で話していたわね。
どこの誰が聞いているか分からない場所で、おまけにその情報を総務の広瀬恵子に教えた。ただ面白いからという理由だけで・・と、いっていたわね。
いわれた人は気の毒よね。でも、あえてここでその人の名は言わない事にするわ。その人の名誉の為にもね。そして、その情報を使って広瀬恵子が何をしたのかも言わないでおくわ。これは、あなたの名誉の為よ。
それに牧原さん、一楽は料亭、この意味が分かるかしら?それからこの一年近くの時間、あなたは、私の何を見てきたの?」
怜香の声が、直美に向かい冷たく言い放たれた。
「・・・・・」
両手で泣き真似をして両目を隠したまま黙る直美の向こうに、電話を切りかけた課長の顔が、みるみる色をなしてしぼんでいく・・。
「牧原君、君は、君という人間は、秘書の仕事がなんたるかも分からなかったのか・・。いや、その前に人として最低なことだ・・」
と最後は囁くようにひと言いうとドスンと音を立てて椅子に尻餅をついた。
それから切りかけた受話器を慌てて持つと、
「もしもし、姉さん。今の話、聞こえたと思うが、今晩、孝一に僕から話があると伝えてくれ。ああ、分かった。じゃ、その時間に伺うよ。それから孝一の携帯は今すぐ取り上げておいてくれ。それと外にはだすな!いいな、姉さん」
怒鳴るような早口な声と同時に、課長はメガネの奥から直美の姿をギロリと睨んだ。そんな課長の声を聞きながら、笠原をはじめ他のメンバーは、そこに直美など存在しないかのように、みんな自分の仕事をテキパキとやりした。
今までバカな女に奪われた貴重な時間を取り戻すためにだ。
当の直美は俯いたまま暫くそこに突っ立っていたが、誰も自分のことを構ってはくれないとわかると直美の行動は素早かった。
今までに見たことがないくらいの早い足取りで、スタスタと自分の席に戻ると、これも普段では考えられない早さで、一番下の引き出しから素早く自分の私物であるピンクのポーチをムンズと勢いつかんで無言で振り返りもせずにバタンと大きくドアを鳴らして部屋を出て行った。
このとき、直美を止める者など誰ひとりとしていなかった。
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名前の一字目に 『き』 の文字がある人。
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