第一章 其山怜香 (四)
「牧原さん、今日中でいいから来週の水曜日、いつもの料亭、一楽さんに会長と今度の商談先の相手との会食の席を予約しておいてくださる?」
怜香は、わざと丁寧に、慎重に、取引先がどこであるかの名前は出さずに直美に指示を出す。そして、そこにいる皆に聞こえる声で、はっきりと直美に仕事の指示をした。その時、窓を背にした席に座る課長が、おやっ・・という顔をした。
「はぁ、はい。分かりました。」
― 分かりました?かしこまりました・・ですけどね。まあいいわ、どちらでも、春の人事異動の前にいなくなる子に、これ以上何かを教えることも、教える時間も、もうもったいなくて仕方が無いのよ、私。ごめんなさいね、役立たずで ー
さっきの一件がまだ尾を引いているらしく、後ろ暗い気持ちの直美は怜香の声に飛び上がらんばかりに返事した。だか、直美は直ぐには電話をしない。怜香の今日中でいいからに反応したのだ。また、いつものことだと誰も何も言わない。
通路を挟んで、直美と真向かいあわせの席に座る直美と同期入社の
怜香は、それに返事をするように〝ええ〟と、軽く目線を下げた。きっと、誰もいなくなってから直美は一楽に電話する気なのだ。それも、皆が帰るギリギリになって怜香に人数と時間を聞いてくるはずだ。なぜなら、そこで働いている男と付き合っている直美は、せこいことに会社の電話を使って、その男と喋りたいからだ。
今日は金曜日、いつも使う料亭だが、こう時間的にギリギリだと席の確保は難しい。だが、そこは今までの付き合いだ。一楽には、お得意様の為に空けている部屋がある。直美はそのことを知っていて、どうにでもなると高をくくっているのだ。この、ずる賢い女は、肝心な仕事を覚える気はないが、こういう特別あつかいのことに関しては直ぐに覚える。
だが、その部屋は、怜香が両親の名前で個人的な予約を既に数日前から入れていた。そして、一楽の女将は怜香の気持ちを汲んでくれて、その申し入れを快く引き受けてくれていた。
それに、こんな大事な商談のセッティングをこのぼんくらに、いえ、考えられない縁故で、しかもゴリ押しで、秘書課に入ってきた直美に任せる気など怜香には初めからなかった。
牧原直美はそこで働いている男、料亭「一楽」のバカ息子と付き合っている。
バカとバカでお似合いだと怜香は思っている。ただ、それだけなら他人事だが、バカ息子の母親、一楽の女将が二人の結婚に出した条件が問題だったのだ。
女将の出した絶対条件は、三年間この会社で・・。
いや、怜香を見込んだ女将が、怜香の下で、直美が秘書課の仕事を立派に覚えたら、息子との結婚を許すというものだったのだ。
つまりは、お客様に対して、どれだけ気配りができる女性になれるか、一楽の嫁に相応しくなれるかということだ。言い換えれば、どれだけ縁の下の力持ちになれるかが鍵だということだろう。
だが到底、直美には出来ない無理な条件を一楽の女将はだしてきたのだ。
怜香が思うに、どうやら一楽の女将は、息子の嫁にと考えている女性が他にいるような口ぶりだった。が、このバカ女はひるまなかった。
電話一つまともにとれないこのバカは、考えるということが出来ないらしいのだ。
だから必然的に将来が見えない。見えないから自分のことも見えていないようだと、怜香はこの一年近く直美を見ていてそう思った。
おまけに自分はなんでも出来る・・と信じられないことだが、直美は思い込んでいるとも怜香は感じていた。だから細かな小さな仕事を覚えようとか、努力しようとかの行為はせずに目立つ仕事をしようと恐ろしいくらいの自信がある。
それに去年の月日の殆どを怜香が何とか人並みレベルにと仕事を教えたが、バカな、この、のろまは仕事をなめてかかっている。それが証拠に自分のしたいことを最優先にして、会社の利益やその先にある結果を見ない。想像ができないのだ。
だから、怜香の直美に対する評価は、いつも目の前ではない、足元のにんじんしか見ていない。バカギャルだ!
おまけにさっきの事でもそうだが、誰が聞いているか分からない場所で他人の個人情報を面白おかしくべらべら喋る。それは秘書課以前の問題だ。
いや人間以前か、どちらにしても、こんなのが料亭の女将になったら、「一楽」は間違いなくつぶれる。
―馬より劣るー
バカだ!と怜香は思う。だから、そろそろ重要な仕事をさせてはどうか?と聞く課長に、怜香はそう言い捨てた。そんなことがあったからか、さっきの怜香の言葉に、やっとその気になってくれたかと課長も驚きながらも受け入れたのだろう。
怜香の目には、二人の会話を聞いていた課長のメガネの向こうの瞳が、頬が、緩んで何ともいえない温和そうな顔に見えた。
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名前の一字目に 『お』 の文字がある人。
☆芯があって、包容力のある人☆
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