第一章 其山怜香 (三)
其山怜香、三十五歳、ぱっと見た目はとてもそうは見えない。実年齢よりは軽く十歳は若くみえている。「二十五歳くらいですか?」と聞かれて、「いいえ、もう少し・・」と怜香がにっこり笑って言葉を濁せば、相手はせいぜい二十代後半だろうと勝手に想像してくれた。
怜香は小さい頃から、可愛い、美人だと周りからチヤホヤされ中学高校と貰ったラブレターは数知れず。大学に入るとお遊びで出た、その年の大学のミスに輝き、その美貌はそれこそ巷の小さな世間に一気に広がった。
そして、怜香本人も自分の容姿が周りに与える影響を十分に理解していて、服装やお化粧の外面的なものから、行儀作法の内面的なことまで自分への投資は惜しまなかった。
両親も、それらのものに怜香がお金を使うことを許してもくれたし、援助もしてくれた。だからだろう、それと比例するように、これまで欲しいというものが手に入らないことなど何も無かった。
が、しかし・・・。
年を追うごとに目に見える容姿より、書類上の年齢は怜香を窮地に陥れた。
あれは、しめやかな正月飾りが外され、そろそろ町がバレンタインデーに賑わいを見せようかとする、そのほんの狭間にある中途半端な時期で、空はどんよりとした雲と情け容姿なのない冷たい風が吹き荒れ、コートの下の身体さえ凍らせるのかと思われた年明け一月の冷たい日のことだった。
「怜香さんって、美人だけど・・もう、年よねぇ。」
と秘書課の・・、怜香の後輩、入社一年目の
「えっ、どこが?」と直美の同期三人組の一人、
「だって、書類渡すときにさぁー、すっごく間近で見るじゃ無い。そしたらねぇ。」
「うん?」
「こぉ・・、目尻に、薄らだけどシワがあるわけ。で、微妙にファンデがよれていたのよ」
「ええぇー、あの、怜香嬢がぁ!」
「そう、だって、もう、三十五なんだよぉ。」
「うそぉ?」
「本当、私、見ちゃったんだ。人事ファイルの生年月日!だから、シワも納得。」
「ふぅーん。そうなんだぁ。」
「でね、それを、総務の広瀬さんに教えてあげたの・・。」
「えっ!あの、天敵に?」
「そう!」
「それ?やばくない?
「そう、あの時は、広瀬さん、可哀想だったわと、去年辞めた先輩が言ってた。」と直美が言う。
「そうかなぁ?確かに聞いただけの話なら、可哀想といえば可哀想だけど、鈍臭いことしたのは広瀬恵子でしょ?そのうえ、あの顔で怜香嬢に張り合うなんて、自業自得といえば・・、ねぇ。」と由奈が紀子に同意を求めた。
「うん・・。でも、ヤヤ。なんでまた?そんなコトしたの?」と紀子が直美に聞いた。
「それがねぇー。」
ヤヤとは、入社一年目の牧原直美の愛称だ。
そして部署は違うが、そこにいるのは直美を入れた由奈、紀子の同期キャピ子三人組だ。だんだんと直美の声は得意げになって、声高らかに怜香の事をこれでもかとこけおろし出した。
それを聞いたキャピ子達二人は、人の不幸は蜜の味とでも言いたげに甲高い声を弾ませ笑っていた。
怜香が個室に、そこに居ることも知らずに・・。
― そうか、そういうことだったのか ―
怜香はおもむろに立ち上がると、ドアを開けた。
そして、静かに彼女たちの後ろに立つ。
空気が一瞬で、静かに止まった気配がする。
目の前の三人組を間にして見える壁一面の大きな鏡には、ファンデーションのコンパクトや、口紅を持ったままの格好で目を大きく見開き、身動きできずに凍り付いた三人の顔と、真っ直ぐ鏡だけを見ている怜香の顔が映し出されていた。
「どいてくださる?」
怜香の言葉に三人は手にしたものを持ったままの格好で、まるでこの世の終わりかというような顔をして、右側にチョコチョコと小刻みにカニ歩きをしながら、冷たい光を放つ黒いタイル張りの壁にキュッと、押し競饅頭をするように寄った。
どうやら、三人とも恐ろしくて声も出ないようだ。
怜香は、淡いピンク色の洗面台が三つ、お行儀よく並んでいる真ん中へわざと進み出る。
そして、ゆっくりと時間をかけて手を洗う。
隣から誰かのゴクンという唾を飲み込む音が微かに聞こえた。
それから、こわごわ怜香を見ている六つの目を無視して、左側にあるドアを静かに開けて出て行った。
パタンと軽い音がしてドアが閉まると、背後から「どうするのよぉー、直美ぃー」と騒がしい声が漏れ聞こえていた。
が、怜香はそれも無視して、廊下を真っ直ぐ歩いて秘書課のドアを開けた、と一瞬立ち止まり目線をあげる。
最上階のガラス窓の向こうに広がる、薄墨色のどんよりとした重い雲を正面に見てから「まるで水墨画の世界ね。下は、雪かしら・・」と怜香は呟いた。
それからフロアの一番奥にある、ガラス窓を背にした課長の机から、その机分の幅の広さの通路を中心にして、左右に分けたそれぞれ三つずつ向かいあわせに並んだ机のうち、一番奥の自分の席に戻る途中で、入り口直ぐ、直美の机に置かれていたカレンダーを無言でパラパラとめくった。
怜香が席に着いて暫くすると、課長と他のメンバーも帰ってきた。直美は、その流れに隠れるようにして部屋に入ってくる。どうせひとりで入るのが怖くて、秘書課のドアの前で課長達が帰ってくるのを待っていたのだろう。
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名前の一字目に 『え』 の文字がある人。
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