第2話 無ツマ主義。
「いらっしゃいませ。」
いつもと変わらない平坦な口調で彼女は僕を迎えた。嬉しさやはり湧いて来なかった。
「おはようございます。なにか仕事はありますか。」
この前の埃払いで少し汚れたエプロンを首からさげて腰で留めながら尋ねる。目の端でエプロンに染み付いたもう動かない活字を見る。凝。そう書いてある。
「今日は特にはないので、私の代わりにお会計をおねがいします。」
いつも通りの注文だった。僕が会計机に座って、傾木さんがその隣の会計机の椅子よりも少し柔らかそうな椅子に座ってお客さんが商品を持ってくるのを待つ。
大体商品が会計机に置かれると傾木さんが値段を言うのだけれど、僕もすっかりすべての本の値段を暗記してしまっているので傾木さんのそれは無意味といったら無意味だった。
普通の小説は百円。学術書は五千円。僕でも知ってるような作家の初版は五万円。その他の初版は二万円。買値は売値の半額。正直これを教えられたその日に僕はすっかり覚えてしまったのだけど、僕が値段を言うと傾木さんが不機嫌になるのでずっと傾木さんが値段言い渡し役だ。
不機嫌になるならばなぜ傾木さんは僕に勘定を教えたのか不思議だけれど、多分自慢したかっただけに思える。傾木さんも案外そういうところ人間臭いんだ。
「今日も暇ですね。」
男女が会計机で肩を並べて背が低い方は分厚く大きな古書を背が高い方は流行っている小説の文庫本を読んでいる異様な空間が続いて早数時間。ここに来る前に買っておいたこの文庫本もそろそろ読み終わろうかという辺りで傾木さんが口を開いた。傾木さんは僕が来てから既に二冊近く読み終えていた。
「ええ、そうですね。」
僕はなんとなく話を合わせる。傾木さんのこの言葉にはあまり意味がなくて、ただの会話の切り口だったりするのが大体だった。
「そういえば知っていますか、東京の方で無ツマ運動が流行っているらしいですよ。」
ムツマ、聞きなれない言葉に首を傾げる。独身男性のことだろうか。
「正しくは無神論:爪先乖離主義運動で無ツマ運動はその略称らしいのですが、その元締めが酷く言葉が巧みで爪先がないらしいです。」
「爪先がないだなんて、随分と風変わりな宣伝方法ですね。」
妙に熱の篭った傾木さんの語気よりも僕はそっちに気を取られた。
「作業工程の無駄を無くせば効率が上がるのならば、無駄な爪先をなくせば人のエネルギー効率が良くなり次の段階にいけると本気で思っているらしいですよ。」
「なんだか安直ですね。人体は全身がポンプのような働きをしているほど血流が良くなって健康に良いのに、ポンプの一つを無くしてしまうなんて。」
「案外、正解かもしれませんよ。信じるものは救われるといいますし。」
話題は尻切れトンボで安直な結論で締め括られた。再び僕と傾木さんは各々の本へと意識を集中させた。
「これ、ここに置いてくんないかな。頼まれちまって。タダでもいいからさ。」
男性が僕らが集中する前に会計机へ本を一冊置いた。タイトルは『爪先乖離主義』。あまりにもタイムリーな本で思わず肩が震える。
「五十円です。買取証明書の署名はどうしましょう。」
さすがに傾木さんは冷静を保っていた。
「じゃあ、イニシエノタミで。」
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