傾木さんは古書店に住んでいる。

@tokyokabi

第1話 傾木さんは古書店に住んでいる


 


 傾木さんは古書店に住んでいる。

 遭津町三番街の裏路地、一回迷わないといけないような場所にある古書店傾猫堂に傾木さんは住んでいる。

 生活スペースがあるとは思えないこの店にシャワーやキッチンがあるとは思えないのだけれど、確かに傾木さんは住んでいる。


 「いらっしゃいませ。」

 いつも通り礼儀正しく彼女は来店した客全員にそう言う。

 今回、この言葉は僕に向けられた。

 特に嬉しくもないし慣れてしまったが、彼女のこの律儀さには毎回感服してしまう。

 店員であり同僚である僕に対してもこうなのだから。


 「おはようございます。今日はなにか仕事はありますか。」

 僕は毎回始めにこう尋ねる。聞かないと彼女は仕事を滅多に割り振ってくれない。女性と話すのが苦手な僕ははじめの頃この短い言葉でさえも吃ったものだけれど、最近は慣れたものだった。

 「今日は本の埃を払ってください。梅雨前には綺麗にしたいのです。」

 傾木さんはそう言うと読んでいた本から視線を浮かせて目の前にあるハタキを見詰めた。

 「わかりました。」

 呼応して傾木さんは視線を本へと戻す。自分でやれ、なんて文句は言えない。彼女は店員ではなくただ住んでいるだけだから。

 ハタキを片手に踵を返して一番奥の本棚へと向かう。一番奥から入口に向かって掃除をすることで埃を入口から追い出す算段だ。

 埃が舞い過ぎると埃が本から本に移動するだけになるので置くようにハタキをおろしていく。

 裏路地にあるこの店にも夕方だけは奥まで日が差し込むらしく舞った埃から順に赤く染まっていく。

 「ん……?なんだこれ。」

 埃だと思っていた赤い粒が重力に逆らって上へ上へと漂い見えない流れに流れていく。

 「活字、ですね。」

 真後ろから声がした。思わず僕はその活字と称されたものから目を離して声の主へと視線を向ける。

 「活字……?」

 頭一つ分低い位置で大げさな丸眼鏡が光を反射し存在を主張している。傾木さんだ。

 「ええ、活字です。舞ってるのが埃で、文脈に乗って流れているのが活字です。」

 「文脈、ですか。」

 僕は彼女と向き直り、厚いレンズの向こうにある双眸を見詰め説明を求める。


 彼女曰く、昔からある八百万の神々という考えに近いらしい。

 この思想は長きに渡って歌で、伝聞で、声で、言葉で、活字で、文脈で伝えられてきたから歌が、伝聞が、声が、言葉が、活字が、文脈が百年を経てそういう概念にならないわけがないそうだ。

 今回の件はここが古い本を扱う古書店ということと、普段は目に見えにくいまさに埃なんかが見えやすくなる夕日が差していたが為に起こったらしい。

 活字も埃に混じればバレまいとでも思ったのでしょうと傾木さんは言っていた。文脈に乗ってしまったのが彼らの失態だった、とも言っていた。

 そして最後に傾木さんは、ずれ始めていた丸眼鏡を人差し指で押し上げて「彼らにはもう会えないでしょう。」と一言添えていつもの会計机に戻っていった。




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