第6章 氷の魔女はかく歌う
私は、もう東の山脈には行くまいと心に決めていた。つららに心配はかけられない。だけど、一面に咲いたあの華の美しさは忘れられなかった。魔女の浮かべる無邪気な笑みも、恐怖は感じるものの、どこか心引かれて仕方なかった。
魔女が呼んでいる・・・。そう感じた。
「セカイも感じる?」
私は、こっそりセカイに話しかけた。
―・・・ボクはあいつなんか嫌いだよ。―
セカイは、泣きもせずに目だけで私に訴えかけた。
答えになっていない答え。
「・・・セカイ?」
セカイは、
「にゃあ。」
と鳴いて、すたすたとベットに潜り込んでしまった。
まぁ、仕方ない・・・か。私は一人で外に出た。なんだか気まずくて、どこでもいいから、一人になれるところがほしかった。頭の中がもんもんしていた。気付けばいつもセカイが隣にいたから、一人で外に出るのは初めてだった。少しだけ、淋しいと思った。ふらふらと気の向くままに歩いて行くと、見覚えのある山脈が見えた。あぁ・・・私、来ちゃったんだ。と思った。山に呼ばれるとは、こんなことを言うのだろうか?それとも私を呼んだのは、魔女だろうか?
紅い金魚のような華、アントライナムが咲いていた。この前は気が付かなかったが、目の前だけでなく、こっちにも、あっちにも、小さな花畑がたくさん散らばっていた。雪に埋もれるようにして白ではない色を放つ華たちは、季節を間違えて咲いてしまったようで、幻想的に見えた。
「やっぱり綺麗・・・。」
私が溜め息をついた時だった。
「そうだねぇ。私もそう思うよ。」
魔女の声だった。あれほどの存在感にもかかわらず、魔女が声を発するまで、私は魔女の存在に、全く気が付かなかった。
「・・・魔女さん。」
「そんな顔しないでよぉ。私の可愛いシャロン。私はあなたに会えて、こんなにも嬉しいのになぁ。」
「・・・うん。」
すごい威圧感。決して脅すような口調ではない。恐れるようなことだって何も言っていない。なのに、思わずすくんでしまう。
「この華たち、本当に美しいよねぇ。ヒトはこんなに美しく生まれ直せるんだねぇ。」
魔女はくすくし笑って、座っていた崖の上から、ぴょんと飛び下りた。
「ヒト・・・?」
言っていることが理解不能だった。
「うん。みんなみんな希望を探してたんだよ。だから、私が呼んであげたの。」
魔女はとっても楽しそうだったが、私には更に訳が分からなかった。
「みんなが淋しくないように呼んであげたのになぁ・・・。」
魔女は、ふっと灰色をした空を見上げた。どこか遠くを見るような目だった。そして、そっと口を開いた。
―春は希望?雪は絶望?
ヒトは希望を求めて足掻く。
美しい華。美しいヒト。
ヒトは希望に惹かれて華になる。
雪の中で咲く永遠こそ、
春の美しさー
魔女はその透き通るような美しい声で歌を歌った。冷えた空気が震える。その音は、なんだか胸が苦しくなるような音だった。胸の中の何かが魔女の歌声に共鳴して、震えているように感じた。胸をぐっと掴まれて、息を絞められているような痛みと、息苦しさが私を襲った。
「うっ・・・。」
立っていられなくなった。それでも魔女は、歌い続ける。その澄んだ声は、どこまでも無邪気だった。とうとう私は、膝をついた。
「魔女さん・・・苦・・・しい・・・っ。」
私は魔女を見上げて叫ぶ。だけど魔女にそれは届かない。
「にゃあ。」
突然、側で泣き声がした。
「・・・セカイ。どうして?」
途端に、胸の痛みが嘘のように消えた。
―ボクは確かにあいつが嫌いだけど、その前にハルの友達だからね。―
「セカイ・・・ありがとう。」
魔女は、突然の黒き対抗者には目もくれずに、楽しそうに歌い続けた。
魔女は、都を見下ろすように立って歌う。その先にいたのは、・・・あやめ・・・だった。
「あやめちゃん、来ちゃダメっ!早く都へ、都へ帰って!」
私は声を張り上げて叫んだ。魔女の声は囁くように静かだったから、私の声はその音よりも大きかったハズだ。しかし、私の叫びは、あやめには届かなかった。きっと、私がそうだったように苦しいんだと思った。胸が痛いんだ。息が苦しいんだと。
魔女の歌声は、心に響いた。耳から、いや、五感全てから感じとる情報を全て無にして、その拙い歌声だけを心の奥底の何かに共鳴させる。その音は、共鳴によって体中に伝わる。
「助けなきゃ。あやめちゃんは、絶対に殺させないっ!」
どうしたらいいのかは、まったく分からなかった。でも動かなきゃ・・・と思った。もはや、私の中で、魔女の歌が人を殺すという噂話を否定するモノは何もなかった。
私は走り出した。あやめの元へと。
「あやめちゃんっ!」
届かないとわかっていてもなお、私は叫ばずにはいられなかった。早くあやめの所へ行きたいのに、足がもつれてうまく前へ進めない。まるで、夢の中で走っているように感じられた。
魔女があやめに向かって両手を広げた。近付いてくるあやめを抱きとめようとでもしているみたいに。
「やめてっ!!」
必死で叫んだ。自分でも気付かないうちに涙が出ていた。走って、走って、何度も転びながら、なんとかあやめに触れようと手を伸ばした。しかし、
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
あやめのかん高い悲鳴が上がった。喉の奥から絞り出すような、人間が出せる限界を超えた音だと思った。あやめの体がびくんと大きく痙攣して、皮膚がこわばるのが分かった。
「早く都へ、連れて帰らないと。」
もう少しで、この手があやめに届く。
「あやめちゃん、あやめちゃん!」
必死に名前を呼ぶけれど、反応はない。その瞳さえも、暗く、淀んで死んだ魚のようだ。その姿に嘗ての面影はなかった。
長い長い悲鳴がやっと途切れた。刹那―――。何が怒ったのか、分からなかった。伸ばした手に、深紅の一滴を見とめるまでは。それは、間違いなく血だった。一瞬で、目の前からあやめが消えた。そして、空からは真っ赤な雨が降る。それは、一面の雪野原に赤い染みを作った。まるで、真っ白なキャンバスに赤い絵の具を散らしたように。唖然とした。
「今・・・・・・、何が起こったの!?あなたは何をしたの!?答えてっ・・・。あやめちゃんは・・・。」
私は泣いた。何が起こったのか、私は無知すぎて分からなかった。しかし、あやめがもう、この世にはいないのだということだけがはっきりと分かった。
その涙は孤独の涙ではなかった。消えてしまったあやめに対する追悼曲(ラメント)だった。
「その子も、死んじゃったねぇ。」
魔女が言った。その言葉は、珍しく、笑いを含んでいなかった。そこにあるのは、おそらく嘆き。
「その子も・・・?」
魔女の言葉がひっかかった。
「みーんなそう。集まって来てくれるのに、みんな魔女に耐えられないんだぁ。哀れだよねぇ?でもシャロン、あなたは私の歌をちゃんと聞いてくれたね。嬉しいなぁ。」
魔女がにこっと笑った。私たちが話している間に、あやめが降らせた血は雪の中を通り、凍った地面を少し溶かして、深く深く染み込んでいったようだった。
「ねぇシャロン、見てて。もうすぐ、春が生まれる。ヒトはこうやって美しく生まれ直せるんだよぉ。」
嫌な予感がした。全身を寒気が襲った。逃げ出したい。家に帰って、全部悪夢だったと思いたい。あやめと、すみれと、何事もなかったかのように、また3人で雪だるまを作るのだ。でも、私の頭は、それを見ろと言っていた。
「ほらっ。」
魔女の声が響いた。魔女の声は、妙に甘ったるい響きを含んでいた。
魔女が指差す方を見ると、そこからみるみるうちに葉が伸びた。そして茎が真っ直ぐに伸び、濃い紫色をした華が咲いた。あやめの血を吸った地面全部から同じように華が伸びていく。そこに出来上がったのは、小さな紫色の花畑。まさに悪夢だった。
「ヒトはこうして、大地に還っていくんだねぇ。ふふふっ。」
魔女は楽しそうに笑った。だけど私は、魔女が一瞬だけ、哀しそうな表情をしたのを見逃さなかった。見逃せなかったのだ。いつも口元に笑みをたたえる彼女だからこそ、私の目にはその憂いだ表情が奇妙に映った。何と言っていいのか分からなくて、私は下を向いた。涙がぽたぽたと雪に落ちた。
「・・・こんなの・・・酷いです。」
ここにある美しい華たちはみんなセリテイルの人々だったなんて。私が都に持って帰ろうとして摘んだ華も、みんな“ヒトの血から生えたモノ”なのだ。吐き気がした。
「にゃあ。」
セカイが哀しそうに鳴いて、私を見上げる。
―ハル、大丈夫?―
「大丈夫。私は。でも・・・・・・世界は、こんなにも不条理なモノなの?・・・私の望んだ世界は・・・こんなのぢゃ・・・ないハズなのに・・・。」
「にゃあ。」
セカイはそう鳴いたっきり、私の足元にぴっとりとくっついて何も言わなかった。
「不条理・・・ね。」
魔女は小さな小さな声で呟いた。あまりに小さくて、私にも、かすかにしか聞こえなかった。冷たい風が峠と峠の間を通り抜けて、ピュ――っと、寒々しい音をたてた。私は、雪に埋もれるように咲く、青紫色の華をじっと見つめたまま、しばらくそこから動かなかった。
魔女は、私の隣でまた無邪気に笑みを浮かべてこう囁いた。
「でも、私は都の人たちみんなのことを、殺してしまいたいくらい、愛しているのになぁ。」
と。ちらりと見上げた横顔の、恍惚とした表情は、孤高の狐を思わせて、うっとりとした青い瞳には、いくつもの花畑が映っていた。
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