フラグメント9

 朝、目が覚めて、洗面所で顔を洗おうとした。いつものように寝ぼけ眼で鏡を見ると、そこに柴犬がいた。一本線を引いたように垂れた目、たるみきった口元、顔中に生えた茶と白のコントラストに、頭上から伸びる三角形の耳二つ。

 そうか、これは夢だ。ベッドから起き上がったと思ってたけど実はまだ寝てるんだ俺は。うんそうだそうに違いないというかそうであってくれ。

 目覚まし代わりに両手で頰を叩く。すると鏡の向こうで柴犬も同じように両方の肉球を頰に押し当てた。

 嘘だろ……勘弁してくれよ……。

 俺が何か悪いことでもしたというのか。いつのまにか人道から外れた鬼畜外道な行いをしたせいで、神様か何かが天罰でも与えたもうたっていうのかオイ。それにしても柴犬にする必然性はあるのか。柴犬好きの神様とかずいぶんと庶民的じゃねぇか。


 インターホンの音がした。ビクッとしたが「キャン」と鳴きそうになるのはどうにか堪えられた。






「なぁ、頼むよ……見逃してくれ……」

 男がすがりつくように懇願する。けれどもそんな情けない命乞いを聞くつもりは毛頭ない。

「嫌よ。せっかく捕まえたんだもの。みすみす逃すつもりなんてないわ」

 この時が一番、心が躍り血が騒ぐ。病みつきになる高揚感が私を染めていく。

 男の体はすでに腰の辺りまで砂に埋もれている。懸命に上半身をばたつかせるが、抜け出る見込みはなさそうだ。顔を引きつらせて、みっともなく足掻く姿は滑稽だ。その姿に、高鳴る胸を抑えられなくなる。

 刻々と、己の意思に反して獲物が自ら近づいてくる。男のシルエットは失われつつあり、間もなくして首から上だけが残された。

「あなたってどんな味がするのかしら。脂が乗っていそうだから、きっとこってりとしているのでしょうね。楽しみだわ」

「あぁ……あぁ……」

 為す術がないと悟ったのか、男はうわ言を垂れるばかりだ。零れる涙が砂を濡らす。その軌跡を辿るように、彼の頬を軽く撫でる。

「あぁ、泣いちゃった。だらしがないわね。でも安心しなさい。せめて気持ち良くイケるように、じっくりと噛み締めるように味わってあげるわ」

 私の言葉を聞き終えるや否や、男は完全に砂中へと沈んでいった。

「それじゃ、いただきます」

 たまらず口元を舌なめずりする。それから私も彼の後を追った。






 穴があったら入りたい。少年は今、人生の岐路に立たされていた。

 彼には幼い頃から密かに抱いていた夢があった。それは戦隊ヒーローやヒーローライダーのように、悪から人々を守る存在になりたいというものだった。幼少期の男の子なら誰しも抱くであろうその幻想を、彼は十三歳になった今でも追い求めていた。

 ヒーローになるために彼が取り組んでいたことは、近所の空き地で特訓を積むことだった。ひと気の少ない空き地であれば、思う存分トレーニングに励むことができた。筋トレに体力づくりに、そして必殺技。しかし彼には、ヒーローたちが持っているような必殺技を模倣できるだけの能力がなかった。

 そこで彼が思い至ったのは武道だった。それも中国の八極拳に目をつけた。一撃必殺と言わしめるこの拳法であれば、どんな敵でも倒すことができるだろう。それに、古風な感じがとてもかっこいい。そうして少年は、来る日も来る日も八極拳の練習に明け暮れた。

 その日も練習をしていた。腰を落として、拳を突き出す。繰り返すうちに少年は勢い余って、つい「エイヤッ!」と掛け声が漏れてしまった。

「何してんの? ていうか望(のぞむ)くんじゃん」

 少年、望は硬直した。声の主は、同じ中学のクラスメイトで、望が密かに恋している高野華奈(たかのかな)だった。望はまさに穴があったら入りたい状況に陥っていた。






 かってうれしい、はないちもんめ。

 まけてくやしい、はないちもんめ。

 あのこがほしい。あのこじゃわからん。

 そうだんしましょ、そうしましょ。


 斜陽差し込む公園にて、子供達が無邪気に遊んでいる。そこへ、「はないちもんめ」の唄に被せるように「夕焼け小焼け」の音楽が流れる。

「あっ、もう時間だ。それじゃ、そろそろ帰るね」

 彼らのうち、一人の男の子がそう切り出した。対して、他の子達は

「イヤだ。まだ遊び足りないよ」

「そうだよ。もう少し遊んでても大丈夫だよ」

「君だってもっと遊んでいたいだろ?」

 と言って聞かない。頑なに帰宅を拒むような彼らの態度に、男の子はたじろぐ。

「そ、それでもダメだよ。家族が待ってるんだよ。これ以上心配をかけるわけにはいかない」

「そうか。あくまで君は帰るっていうんだね……」

 男の子を除く子供達は、男の子を見つめたまま黙り込む。異様な静けさが男の子に迫り来る。誰も動かず、何も語らず、ただ刻々と静寂が流れゆく。その時間が、男の子にじわじわと恐怖を与える。

 ある一人が一歩前に出た。それと同時に、男の子は一目散に駆ける。公園を出て、帰るべき場所へと走っていく。彼の後ろ姿を、子供達はじっと眺めていた。

 黄昏の光が、駆ける男の子を追って照らす。その足元に影は伸びておらず、足音は響いてこない。それでも彼は帰る。彼を待っていた場所へ。






「にいたん、にいたん。あさですよー。はやくおきないと、おねぼうさんですよー」

 待って、あと五分でいいから寝かせて……。

「もう。にいたんがおきなきゃ、だれがあさごはんつくるの。はな、もうおなかぺこぺこだよ」

 にいたんは頭がレムレムなんだってば。にいたんを労うつもりで、もうちょっとだけ眠らせてくれ。

「わかった。にいたんがそのつもりだったら…………とりゃあ!」

 気を緩めたのが迂闊だった。布団越しに腹部へ伝わる衝撃。喘ぐ#野郎__じぶん__#の声。眠気に身を委ねようとした俺の脳内が刹那に覚醒する。

「こ、のっ! よくもやったな!」

 俺のステキな二度寝を邪魔した張本人に手を伸ばす。その体を捕らえたのと同時に自分の方へ抱き寄せる。そして──。

「うにゃあ! あたま、くしゃくしゃになるー。やめろー」

 渾身のナデナデ。最初は抵抗する素振りを見せたものの、頭部の気持ち良さにやられて言葉にならない声を発するようになった。こうかはバツグンだ。

 こうして、朝の運動は終わりを迎える。一息ついた後は、恒例の挨拶。

「おはよう、華。今日もいい一日になりますように」

「おはよう、にいたん。きょうもいちにちがんばろー」






「なに黄昏てんのよ。ブッサイクな顔しちゃってさ」

 頭の上から溌剌とした声が注がれる。その元気の良さにうんざりとするものの、無視すれば十中八九飛び蹴りをお見舞いされるだろう。仕方なく「うるせぇ」と見上げる。そこには白いTシャツにブルーのハーフデニムを履いた奈々実がいた。護岸ブロックに腰掛けて足をバタつかせている。目が合うと「やっほー」と悪戯っぽく笑いかける。

 まったく。コイツは昔からいつも俺の行く先々へ付いてくる。一人になりたい時でさえ。それが嫌で黙って出たというのに。

「オバさんから聞いたんだ。死んだ魚のような目をして、ゾンビみたいにフラフラ〜と出かけて行ったって。アンタのことだから、きっとここへ来てるんだろうなって思ったんだよ。フフン、さすがわたしの名推理」

「ハイハイ、スゴイデスネー。こりゃあ将来は凄腕の名探偵になりそうだなー」

「心がこもってないぞー。お世辞でもちゃんと言えよー」

 しかめっ面で頰を膨らませたかと思えば「よいしょ」と立ち上がって近くの階段を降りていく。そして俺の右隣に三角座りする。

「ねぇ。前から思ってたんだけどさ」

 トーンを下げた奈々実の声。その雰囲気の変わり様に少し戸惑ってしまう。

「アンタってよくここへ来るよね。海岸で一人黄昏るとか、もしかしてロマンチストなの? うわ、顔に似合わねー」

 真面目に聞こうとした俺が馬鹿だった。なので奈々実を無視して、前方の海を眺めることにした。「聞いてんのかぁ? おーい。達哉くーん?」などという声はシャットアウトしてやる。

 風が無く、波は穏やかに揺れている。燦々と陽光が照って、海面に白い光をもたらす。周りには誰もいない。いわば穴場というやつだ。ここの静かな雰囲気が好きで、何かあればよく訪れる。なんというか、心が安らかになる感じがする。

「無視すんなやー!」

 エイ、という掛け声とともに俺の顔が九十度回った。奈々実が殴ってきたのだと気づくのにコンマ三秒ほどかかった。

「何すんだコノヤロウ! 傷心してる相手に暴力を振るうのかおどれはぁ!」

「やっぱり。なんか落ち込むようなことがあったんだ」

 奈々実は真っ直ぐに俺を見つめている。ふざけた様子の無い、真剣な表情だ。ばつが悪くなって、奈々実から視線を逸らす。

「ダメ。ちゃんとコッチを見なさい」

 両手で顔を挟まれて、無理やり視線を戻される。否応無く目と目が合う。

 二重で大きく見開かれた瞳。化粧はしてないが、女の子らしさが十分に感じられる。最近染めたという茶髪が陽射しに照らされて眩しい。






 今日は雨に濡れていこう。

 ドロドロしたもの。ムズムズするもの。

 雨水と一緒に流しましょう。

 鼻唄うたえば、あら不思議。

 ココロもカラダも軽やかよ。






 ツバメの母さんは子供たちのために、大雨の中、エサを探しに飛び立つ。

 それを見てホロリと涙が一筋。零れた雫は袖口を静かに濡らす。

 あぁ、これが親子の絆というものか。






 ネオン街の淡い光たちが疲れた俺を出迎えてくれる。多忙極める無機質な事務仕事。そんな毎日に退屈を感じるようになって、はや幾星霜。今まで溜まりに溜まった鬱憤を、この夜の街で晴らしてやるんだ、と意気込んだはいいものの……。実のところ、ここでの愉しみ方がよく分からずにいるのだった。

 大通りを進むと、予想以上に多くの人とすれ違う。俺と同じく会社帰りであろうスーツ姿の男たち。そんな彼らを勧誘しようと熱心に声を掛けるキャッチの兄さんたち。意外に女性の姿もしばしば見かける。さらには男同士で腕を組み合ってバーらしき店へ入っていく姿も。昼間の町並みとは違う、静かな熱気が確かに伝わってくる。

 やっぱり、ここはスナックとかキャバクラとかがいいのだろうか。綺麗なお姉さん方とお酒を嗜んで、談笑に洒落込むのが一興なのか。けれども、あいにく俺は口下手だ。言葉よりも先に身振り手振りで気持ちを表現してしまう。パントマイムと変わりゃしない。自分の欠点を意識してしまうと、新天地へ赴く勇気がなかなか振り絞れなくなる。どうしたものか……。


「ねぇ、そこのお兄さん♪ どこかお店を探してるの? だったらボクと一緒に愉しいことしない?」


 心にすりつくような猫撫で声。その主を探すと、左側のやや下の方に立っていた。

 身長は俺の胸ぐらいまでで小柄な体型。黒地にピンクのラインが入ったフリル満載のワンピースドレスを身に纏っている。肩口で切り揃えられた派手な金髪。輝くような白い肌。愛らしくも整った顔立ち。真っ直ぐに見上げてくるつぶらな瞳。それら全てが艶やかで官能的だ。

 でも、一つだけ気になることがある。


「君……男の子、だよね?」

「そうだよー。でも、かなり可愛いでしょ? ここまで女装が似合う男の娘はそうそういないと思うよー」


 あっけらかんと、自身の性別をカミングアウトした。俺の違和感が見事に的中して、なんとも言えなくなる。


「それにしても、ボクが男だってよく分かったね。もしかしてお兄さんって、ソッチ系の人?」

「い、イヤイヤ全然。なんというか、女の子を見た時とは違う高揚感? ていうのか、ゾクゾクする感じがして、それでなんか普通とは違うのかなって思って……」

「ふーん。つまりお兄さんのセイヨクセンサーが男の娘のボクに見事反応したってわけだね」

「セイヨク!? そんな馬鹿な!」

「お兄さんってば動揺しすぎ」


 そう言って、彼は無邪気に笑う。その表情はやはり女の子というよりも、活発な男の子という風に見える。


「というよりも、君は未成年じゃないのか。こんな所にいたら色々とマズイんじゃ……?」

「そんなこと言ったらこの話が成立しなくなるから、気にしたらダメだよ」


 なんかメタ発言で制された。それは奥の手なんじゃなかろうか。


「細かいことなんかどーでもいいんだよ。結局どうなの? ボクと一緒に遊ぶ? それともここでバイバイ?」


 それから彼は口を閉じて、一心に上目遣いで見つめてくる。あ、その顔はヤバイ。猫と同じアレだ。自分の可愛さを前面に押し出して、否が応でも相手に要求を呑ませてしまう、蠱惑のハニートラップ。刹那、頭がクラッとする。


「分かったよ。キミと一緒に遊ぶよ。それで、どこに行けばいいの?」


 愛らしさに負けて了承してしまう。それに気を良くしたのか、「ヤッター」と彼がはにかむ。健康的な唇の下から八重歯が覗いた。






「もうすぐ時限爆弾が爆発する!」

アイテム 砂、玄米、たこ焼き


【前回までのあらすじ】

 大富豪が主催する祝賀パーティーに突如としてテロリスト集団が現れた。彼らの目的は大富豪がパーティーで披露していた百カラットのスーパーダイヤモンドだった。瞬く間に会場を占拠したテロリスト達だったが、偶然その場に居合わせた敏腕刑事のジョンによって計画を阻止される。ジョンが一人残らずテロリストを取り押さえたのも束の間、会場に仕掛けられた時限爆弾が作動した事を告げられる。なんとか爆弾を発見したものの、それは解除困難な代物だった────。


『第三話 爆弾を解除せよ!』


 ジョンの焦燥は天頂に達しようとしていた。そんな彼の心境を嘲笑うかのように、目前の液晶パネルはカウントダウンを続ける。

“コードがめっさ多い……!”

 テロリスト達が仕掛けた時限爆弾はコードを切って解除するタイプの物だった。赤青黄緑橙桃紫茶黒などバリエーションに富んだコードが張り巡らされている。その絶妙なカラフル度合いにはある種の芸術性を感じることができる……のはさておき。ジョンがどのコードを切ろうか迷っているうちに刻一刻と時間は過ぎていって、気付けば残り五分となっていた。

「頼む、刑事さん! なんとかしてくれ!」

「まだ死にたくないわ! お願い、刑事さん。爆弾を止めて!」

 三々五々に懇願する人々。その慌てふためく姿を嘲笑うように、捕縛されたテロリストは声を上げる。

「はっ、その爆弾は俺達の自信作なんだ。そう簡単に解除できるわけがねぇだろうが。精々残り少ない命を惜しむことだな」

 テロリストの挑発を受けるも、ジョンは依然として爆弾を止めることに集中していた。しかし、未だにどのコードが正解なのか見当もつかない。果たしてどのコードを切ればいいのか。

 悩みに悩んだ末、腹が減っては戦はできぬという結論に至ったジョンは、テーブルに並べられたたこ焼きや玄米ご飯を食べることにした。日本独自の食文化はアメリカ育ちのジョンの舌をも唸らせる。

「刑事さん! 呑気にご飯を食べてる場合じゃないだろ!」

 招待客のツッコミを受けて我に帰るジョン。内心では相当焦っていたのだ。

 気を取り直して、再び爆弾の解体作業に努める。腹は満たされたものの、良いアイデアは一向に浮かばなかった。やはり運任せにコードを切るしか方法は無いのだろうか。残り時間は三分を切っていた。


「お困りのようだね、刑事さん。私が力を貸して差し上げましょうか」


 ジョンに投げかけられた救いの一声。そちらへ振り向くと、小柄で白髪が特徴的な和服の老婆が立っていた。

「私の名前は砂かけ婆だ。私は日本の妖怪で、たまたま連れの妖怪と一緒にこのパーティー会場へ来ていたんだよ。なぁに、私の力があればこんな爆弾ぐらいなんとかできるさ」

 それはジョンにとって頼もしい申し出だった。即座に承諾する。

 砂かけ婆は掌から砂を出すと、そのまま爆弾に向けて投げる。すると砂は爆弾を覆っていく。みるみるうちに爆弾が砂の球体へと変貌を遂げる。砂かけ婆はその球体を持ち上げると、会場を出て行く。ジョンもその後を追う。

 向かった先は屋外のプールだった。プールサイドまでやってきた砂かけ婆は、プールの水面を見つめながらその場で立ち止まる。

 ボン、とくぐもった破裂音が聞こえた。それは球体の中からだった。おそらく中の爆弾が爆発したのだろう。しかし、外を覆う砂は全く飛散すること無く形を維持している。

「さて、これで仕上げさね」

 砂かけ婆は砂の球体をプールに向けて投げ捨てる。水中へ沈んだ球体は形を失う。その中から炎が現れた、のも束の間で、瞬く間に鎮火していった。プールの水がエントロピーのように灰色に染まっていく。

「さすがジャパニーズ‘‘ヨウカイ’’! 見事な技だったよ。おかげで我々は助かった。ありがとう、本当にありがとう!」

 満面の笑みで、ジョンは砂かけ婆に握手を求める。砂かけ婆はそれに応じて手を差し出す。その光景を見た招待客から喝采が飛び交う。捕縛されたテロリスト達は唖然として声を失う。これにて事件は解決した。


 ────なお、翌日。ホテルの清掃員が泣く泣く砂まみれのプールを掃除したことを追記しておく。

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