フラグメント6
ソイツは静寂の中に佇んでいた。
家を囲む塀の上に悠然と立っている。
日は沈み、月が這い出る頃。
弾けた、弾けた。おはじきが弾けた。幼い指が、私のおはじきを弾き飛ばした。
垂れた、垂れた。雫が垂れた。赤黒い雫は重力に従い落ちる。
砕けた、砕けた。ガラスの玉が砕けた。破片が飛び散り、見るも無残な姿だ。
苦しい。痛い。悲しい。嫌い。切ない。酷い。眩しい。暗い。
クルクル。クルクルクルクル。クルクルクルクルクルクルクルクル──────
延々と廻り続ける。
黒い渦が巻き続ける。
それはとても気持ちのいいものじゃなかった。
私は真っ黒に染まる。目の前も真っ黒だ。どこに目を遣っても何も見えない。何があっても分からない。
ここはどこ? 私は誰? 本当は知ってるくせに。記憶を失くした姫気取りのバカな女。そうやって逃げてばかりいるから全部壊れちゃうんだ。
もう何も信じられない。何もかもメチャクチャになってしまった。これからの一生を引き籠ることに費やすのだろう。部屋からも、それから自心からも。出て行くことはないだろう。
いったい私が何をしたというの? 私は何か悪いことをしましたか? どうせ騙された方が悪いだとか騙されて可哀想だねとか他人事のように声をかけてくるんでしょうね。そっか、他人事なんだよね。それならしょうがないか。
私は亀になりたい。陸ではノロノロと歩くだけでも、海ではスイスイと泳ぐ。環境に応じて自分の振る舞いを変えられる生き方が羨ましい。一日中、日向ぼっこするのもいいなぁ。他の魚たちと泳いでみるのもアリかも。
でも結局のところ私は私だ。意地汚く生き汚い人間の一人だ。現実を見れば見るほど、現実に帰れば帰るほど、私はどんどん黒く染まっていく。それもパレットの絵の具を水場で洗い流したかのような汚さだ。
呼吸をするだけで胸が苦しくなる。こんな時にはアレしかない。アレだけが私を救ってくれるんだ。
私は習慣を行なった。汚れきった私を少しだけ解放させることができた。
あの人がかっこいいから好きになるのか? 自分とは比べものにならないほど凄い人で、遠目から尊敬の眼差しで見るような人だから好きになるのか?
それは好きという気持ちじゃないぞ。単に羨ましいと思っているだけだ。相手を見ているようで、実際はアンタ自身しか見てないんだよ。
羨望と好意は違うし、ましてや羨望が恋愛に繋がるわけがない。勝手に優劣をつけてしまうような関係で、本当の愛を育めるわけがない。
もう一度アンタの心に聞いてみろよ。対等な付き合いができる奴が誰なのか。本当に好きになれる奴が誰なのか。いつまでも偽物の恋心に振り回されてんじゃねぇよ!
「怖い、辛い、苦しい、憎い、悲しい、切ない、暗い、寂しい、酷い、冷たい、貧しい、恨めしい、腹立たしい、気持ち悪い、図々しい、馬鹿馬鹿しい、鬱陶しい、ああ嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い!! お前達も私自身もこの世界の何かもが! 大嫌いだ!!」
隷従
「私の靴を舐めなさい」
跪いた僕に浴びせられた冷たい一言。あまりの興奮に体が震えるようだった。
眼前に差し出された右足。黒いストッキングの上から革靴を履いている。その隙間から微小ながら蒸れた汗の臭いが漂う。それは鼻腔に侵入し、脳内を刺激する。
「は……はい」
従うしかなかった。否、従いたいと思ったのだ。
靴に顔を近づけ、舌を出す。そして交わされる接吻。舌先に伝わる硬い感触はただただ無機質だった。食欲を限界まで踏み潰されていく心地がした。靴には唾液が纏わりつくだけで、そこから得られるものは何一つとして無かった。
しかし、その非生産的な行為が僕の心を喜びで満たした。彼女に奴隷として忠誠を誓う。それだけで十分に幸福となり得た。
「卑しい犬ね。見ていて反吐が出そうなほど醜い姿だわ」
またもや冷たい言葉が放たれた。僕にとっては、それが何よりの褒め言葉となった。侮蔑こそが僕の栄誉だ。悪辣こそが僕の本望だ。
例えこれからの一生を人間として生きられなくなったとしても、僕はその一生を彼女に費やすことで満足できる。僕に人並みの生活など、もはや必要ではなくなったのだ。
懇願嘆願涕泣号泣艱難辛苦阿鼻叫喚空前絶後乃百鬼夜行。現世のあらゆる醜悪を詰め込んだかのような世界が眼前に広がっていた。邪悪が人を喰らい、恐怖が人を締めつける。まさに絶望だった。
何をしているんだ、俺は。白い化け物は刻一刻と近づいている。ここで突っ立っている暇があるなら早く逃げなきゃ!
(他の人を放っておいてか?)
当たり前だろう! あんな化け物を相手にしたら、どれだけの命が使い潰されると思ってるんだ! どのみち、ここに居続けたら全滅だ。だったら逃げた方が賢明じゃないか。
(本当にそれでいいのか?)
いいに決まってる。逃亡は立派な抵抗策だ。何もせず殺されるよりはいいだろうさ。
(それはお前の本心か?)
あぁ、その通りさ。俺は無力な人間だ。そんな俺にできることは逃げることだけだ。他の奴のことを考えていたら、あっという間に血花が咲くぞ。さぁ、分かったらとっとと逃げ出すぞ。モタモタしてると、アイツがやってくる────
と、そこで見てしまった。
化け物が襲ってくる前に、村へやってきた俺に飴玉をくれた女の子。彼女の元へ化け物が迫っているところだった。その場から離れようとするが、足を挫いたのか上手く立ち上がることができないでいた。震えながら手を彷徨わせる姿から、絶対的な恐怖を感じていることが伝わってくる。
化け物はちょうど女の子の目の前で立ち止まる。獲物を見定める獣の眼だった。それに対峙してしまった女の子は悲鳴をあげることすら叶わない。化け物は顔を近づけ、口を開き出す。低い唸り声をあげ、刃のごとき牙は女の子の体を──────
「ダラァァァァァァァァァ!!!!!」
突き刺す前に俺がブッ飛ばす!!
轟音と突風を纏って化け物は後方数メートルへ吹き飛んだ。その付近にあった無人の民家が瞬く間に崩壊した。
「ハァハァ、ハァ、ハァ」
チクショウ! 今の一撃で俺の腕も危うく逝っちまいそうになったぞ! お前の力は体を強化するんじゃなかったのか!?
(確かにお前の体は強化されているぞ。大方、あのケダモノの質量がデカすぎるせいで反動を受けたんだろう)
淡々とした説明、どうも! 明日からは筋トレしなきゃなんねぇようだな、クソ!!
「……おにぃちゃん?」
女の子は俺を認識したようだ。呆然とした顔で俺を見つめている。彼女をなるべく安心させようと息が切れ切れの中、どうにか笑ってみせる。
「大丈夫か? ここから逃げる……ことは無理そうか。ホントだったら俺が背負って逃げたいところだけど……」
言って、民家が粉々になった跡を見る。そこにはすでに臨戦態勢に入った化け物が俺を睨みつけていた。威嚇するように喉を震わせ、牙を見せる。確実に狙いをつけられてしまった。こうなったらもう逃げるなんて悠長なことは言ってられない。ここでコイツを、
「倒すしかないか……」
(ようやく戦う覚悟が決まったか。ずいぶんと遅かったな、
気安く相棒とか呼んでんじゃねぇ。俺もお前も、お互いが力を合わせなきゃ秒単位で死に直行するだけの関係だろうが。好き好んで俺たちは一緒にいるわけじゃねぇしな。
(それでも、お前は戦うことを選んだのだろう?)
あぁ、そうさ。小さな女の子が窮地に陥っているのに、自分だけトンズラこくなんざ男が廃るだろう!
(そうだな……。さぁ、いくぞ。私はお前に力を貸そう!)
俺はお前に体をくれてやる! とっととコイツを倒すぞ!!
化け物と俺たち。両者の睨み合いは続き、
一歩を踏み出した──────。
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