第29話 罪悪感
一体、いままで自分の見てきた「現実」とはなんだったのだろう。
殺風景な自室を見渡しながら、ぼんやりとそんなことを思った。
繁栄していたころの日本にはさまざまなものが部屋のなかには置かれていた。
いまこの四畳半の部屋にあるのは、寝台とがたついた強化樹脂と鉄製の机、それに椅子くらいのものだ。
電脳を長時間、使う場合はベッドで寝そべるよりも、椅子に座り、机の上に仮想打鍵盤と仮想画面を設定したほうが楽なのである。
その瞬間、音声通話が着信した。
『等。ご飯よ』
ため息をつくと、等は扉をあけて食堂にむかった。
実のところ、あまり腹は空いていない。
なにしろ光の家で、満腹になるまでホットケーキを食べたのである。
光いわく、いまの日本人は小食に慣れているので胃がだいぶ縮んでいるのだそうだ。
また満腹中枢とよばれる脳の部位も、ちょっとしたカロリーを摂取すれば満足するのだという。
こんな状態になったこともないのでいささか不安だが、食欲がないなど病気にでもならない限り、ありえない。
病気になるということは、死につながる可能性が高いのがいまの時代である。
慢性的な栄養失調状態にあるため、大の大人でも重い風邪から肺炎などを併発し、死に至ることは珍しくないのだ。
病院は存在するが、乙種の病院は医療品も限られているうえ、おそろしく治療費も高かった。
もし食欲がないなどといえば、両親は病気を疑い、心配するだろう。
だから夕食はきっちりとらなければならない。
食堂の机の上には、いつもと似たような料理が並んでいた。
ジャガイモ麺麭とオキアミ調味料。
だが、よく見れば珍しいものがある。
魚を日干しにしたものだ。
「どう、すごいでしょう」
母が得意げに言った。
等の母は今年で四十五になる。
もう老人の域に片足を突っ込んでいる年齢だ。
この世代の大半がそうであるように、かなり大柄である。
身長は女性なのに等よりもやや高いほどだ。
「すごいな……これ」
すでに席についていた父が、長身をかがめるようにして、箸で魚をつついていた。
「アジ……かな? こんなご馳走、どうしたんだ。今日はなにか特別な日か」
「やだやだ」
母が苦笑した。
「お父さん、今日、誕生日でしょ」
「ああ……忘れていた」
父が照れくさそうに笑った。
等の父は、電脳技術者である。
この時間に家にいることは滅多にない。
場合によっては二週間近く、職場に泊まりこむこともあるほどだ。
三日徹夜ということも珍しくないというが、べつに父が特別な激務というわけではなく、電脳技術者としてはごく当たり前のことだという。
等は真面目に働いている父のことを尊敬していた。
反人権的なことなどには一切、無縁な男性である。
「ちょっとしたお祝いよ」
そう言うと、母は小さな缶を運んできた。
人権麦酒だ。
「酒か……おいおい、本当にいいのか」
父が顔をほころばせていた。
麦酒というのは本来、麦からつくるらしいがこれは代用品である。
それでも酒が高級品であることにはかわりがない。
丙種地区などでは毒性をもった酒精が密造されているらしいが、この酒はきちんと生産されたものだ。
「等、お父さんのお誕生日、お祝いしてあげないと」
母に促され、罪悪感を覚えた。
自分はあんなにおいしいものを食べた上、未成年なのに光と甲種行為までしてしまった。
一方の父は、このささやかな贅沢に舞い上がっている。
もし自分が絶対人権委員会と戦うことを決意したなどと言ったら、父も母も哀しむだろう。
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