イギリス。ヴィクトリア朝限定描写①
オムニバスという二階建ての大型馬車がある。これは、ホープがハンサム・キャブを利用した時のように、個人の客から行き先を決めてもらうのではなく、決まった区間を低料金で走る大衆用の馬車だ。二頭の馬が一度に二十人近くを運ぶ光景は、なかなか圧巻である。
ホープが武器商人と電話で交商(こうしょう)している最中、アンネはミスリルと一緒にオムニバスに乗っていた。手摺はあっても天井のない二階からの景色に、幼女は感嘆の笑みを湛えた。
「すっごいです。ロンドンって、こんなに広かったんだ」
雲がぽつりぽつりと浮かぶ青空の下に広がる街並みはいくら見ても飽きなかった。シティは金融街として名高く、最新の技術で建設された建物が所狭しと並んでいる。石畳よりも優れたコンクリートでの道路が拡張しつつあり、古き時代の中へ確実に新しき時代が芽生えていた。
大勢の人々が行き交い、馬車が何百、何千台と道路を走る。時折見かける蒸気自動車も、ここ五年で数を増やしつつあった。アンネの興味津津な瞳に気が付いた蒸気自動車乗りの男が軽く右手を振った。幼女が、嬉しそうに手を振り返す。
遠くで、蒸気機関車の汽笛が鳴った。ロンドン最大の交通網であり、英国の大動脈とまで謳われる機関車の遠吠えを、竜の吐息と例えた詩人がいたことを幼女は知っているだろうか。
隣に座っているミスリルは、薔薇の刺繍がされた唾の広い帽子が飛ばされないように右手で押さえながら、嬉しそうに頬を緩めた。他の乗客も子供が無邪気にはしゃぐ姿を見て、微笑ましそうにしている。
乗客の種類は労働階級がほとんどと一人、二人の中流階級だった。
二人の服は女中服ではなく、外出用の簡素な服だ。寒さ対策のために上からローブを着ている。素材は絹ではなく、安価な麻であった。
これはメイザース家の家計が逼迫しているからではなく、単純に今から行く場所には、高価な服が不釣り合いなだけである。大衆レストランへ、社交界でしか見られないようなドレスを着て訪れる者がいないように。
ミスリルは勿論のこと、アンネも靴を履いていた。こちらは流石に作製できないので、靴屋から買った品である。
買った食材を入れる籠はミスリルが持っていた。アンネが膝に乗せているのは、大人の男性の頭部ほどの大きさがある樽だった。鉄製の持ち手までついている。
「私も、オムニバスの二階から眺める景色は好きです。ほら、ロンドン橋が見えてきましたよ」
ミスリルが指差す前方に広がるのは、広大なデムズ川だ。視界の端から端まで伸び、街を北と南に別ける姿はまるで巨大な蛇のよう。数多くの蒸気船が右から左、左から右へと波風を切っている。ロンドンの繁栄をずっと支えてきた川は今日も賑やかだった。今日も異国からの輸入品が大量に、あるいは異国への輸出品を運んでいるのかもしれない。
オムニバスを対岸と導いてくれるのは、幅十六ヤード、長さ二百四十ヤードにも及ぶ〝ロンドン橋〟だ。良質な大理石で造られたアーチ橋を視界に捉え、アンネが悲鳴にも近い歓声を上げる。
「橋を渡るのは初めてですか?」
「はい。遠くからは何度も見た事があるんですけど、近くで見るのとは大違いです」
その顔に僅かながらも影がさしたのは、フローレンスにも見せたかったからかもしれない。アンネは一頻り景色を眺め、ちょっとだけ身を屈めた。高い位置から見える水面が怖かったのかもしれない。
それから十分とかからずに着いたのは、ロンドン橋からそれほど離れていない東側、デムズ川の本流から一本太く、下に伸びた支流の沿岸を中心にして営業されるビリンズゲイト――ロンドン最大の魚市場だった。二ペンス払ってオムニバスから降りたのはミスリルとアンネだけだった。
「さあ、着きましたよ。地面が濡れているので足元に気を付けてくださいね」
鼻孔へ入りこむ生臭さにと、怒鳴り声混じりの喧騒に、ミスリルはいつも通りだなと思う。隣のアンネは、忙しなく首を動かし、その雰囲気に圧倒されているようだった。
木製のアーケードの下に陣取る魚売りの店先では、恰幅の良い男達が声の大きさを競うかのように営業の文句を謳っている。通路が狭く、その分だけ余計に喧騒が鼓膜を震わした。
「この丸々太ったロブスターを見てくれ! 一尾がたったの二シリングだ!」
「さあさあ御立ち合い。寝坊助の鮭が今日の目玉だよ! これは蒸したら最高だ!」
「ウナギが樽一杯でなんと六ペンス! こんな値段、他じゃ考えられないよ!」
砕いた氷を敷いた木の箱に並べられる海老に、大きな生簀の中を泳ぐ大小の魚、秤にかけられ、今まさに交渉の真っ只中にある牡蠣と、様々な魚介類が売られていた。店主のほとんどが筋肉質な体付きなのは、重い樽を持って何度も往復しているからかもしれない。
アンネのすぐ目の前を通り過ぎた男は、魚でいっぱいになった樽を悠々と担いで運んでいた。あまりにも賑やかなせいか、幼女は目を白黒させている。
「な、なんだか、騒がしいですね」
魚介類とは新鮮さが命である。ライバルがいるのなら、自然と声は張り上がる。通路向かいの店と喧嘩するような勢いに、アンネがミスリルのローブの裾を握った。
露店の見習い小僧からの売り込みを右手だけで断ったミスリルは、アンネの頭を優しく撫でる。
「怖がらなくて平気ですよ。ほら、皆笑っているでしょう」
売り込みをしている男達は口調こそ怒声に近いものの、その表情は快活であり、微塵も怖くない。大勢の客を引き留めるのは喧騒にも負けない大声と、笑顔である。そう思うと、耳を塞ぎたくなるような喧騒も活気あふれる楽しいものだと感じられる。
お通夜のような祭りと熱狂に包まれた賑やかな祭り。楽しいのはいつでも後者である。アンネは俯いていた顔を上げて、辺りを見回す。そして、安堵するようにミスリルのローブから手を放した。
余裕がでてきたのか、川岸に停められた船を見上げ、歓声をあげる。樽詰めされた魚が大量に陸へ上げられていく。運ぶのは筋骨隆々の男達だ。近くでは、大量の氷まで樽で運ばれている。
多くの船が渡れる川があれは、周囲の沿岸は自然と活気づく。ビリンズゲイトは不況の中でも、いつも変わらない繁盛っぷりを魅せていた。客の中には主婦や、お使いを任された子供に、料理店の店員か、パブでも経営しているだろう年配の男性がいた。中には、遅い昼飯でも楽しんでいるのか、生牡蠣片手にビールを飲んでいる者までいる。少なからず飲食オーケーの露店があるようで、どこからか魚が焼ける良い匂いがした。鼻が利くのか、ミスリルよりも敏感にアンネが首を動かす。
「今日は何を買うんですか?」
アンネから聞かれ、ミスリルは周りを一瞥する。この時期に手に入れられる魚介類といえば、ヒラメ・鯉・マダラ・ウナギ・カレイ・ロブスター・ボラ・カキ・プレイス(ツノガレイ属の魚)・車海老・ガンギエイ・シタビラメ・大型ヒラメ・ホワイティング(タラ科の食用魚)・シラウオなどがある。または旬の外れた鮭かカワカマスか。
ミスリルは一通りの料理をおこなえる。ウナギは揚げてもシチューにしても美味い。新鮮な牡蠣ならビネガーを数滴かけて生のまま。シラウオなら一度蒸した後にソースで煮込むように焼けば、アルコール度数の高いジンにぴったりな御供になる。あれこれと考え、彼女の目に止まったのはピンと伸びた触角が立派な海老だった。
海老はどんな調理法も可能で、特に今が旬であり味も格別だ。
「そうですね、今日は海老のフライにしましょうか。アンネはエビが好きですか?」
女中が何気なく尋ねると、アンネは困ったような表情になる。
「エビって、食べたことありません」
上流階級と中流階級を別けるのが馬車の有無、中流と労働階級を別けるのが女中の有無、
労働階級の中でもさらに優劣をつける条件は日頃の食事で出される肉の量である。
精肉やチーズを毎日食べられるのなら、その家の暮らしは比較的に裕福な暮らし。精肉は買えずとも、それよりも値段の安い加工肉であるベーコンを毎晩食べられるなら、まあまあの暮らし。ここからさらに下になると、パンは白か黒か。ジャガイモや紅茶の有無などが挙げられる。そして、ビリンズゲイトで安く売られている海老や牡蠣が買えないとなると、生活はどん詰まりだ。
つまり、海老を食べた事がないのは、相当貧しかった証拠でもある。ミスリルは昨日見たアンネとフローレンスの肢体を思い出し、もっと血肉を増やさなければならないと決意する。
「美味しんですか?」
「すっごく美味しいです。さっくりとした衣とぷりっとした身の甘みが絶妙ですね」
ごくり、とアンネが生唾を飲み込んだ。この分だとフローレンスも食べたことがないだろう。今日のフライはいつもよりも美味しく作ろう、とミスリルは活きの良さそうな海老を撃っている店を探す。
「あとは今朝にホープが食べたヒラメのムニエルなんて美味しいですね。それと、生牡蠣のサラダも捨て難いです。料理の練習も兼ねますし、沢山買いましょう」
ロンドンでは日頃どれだけ高級な肉を食えるかが一つのステータスになっている節がある。貴族の晩餐でメインを飾るのは当然、肉だ。ただ、ミスリルは肉よりも魚が好きである。フライにマリネ、蒸し焼きに、煮てスープに。特に、癖がない白身魚はいくら食べても飽きがこない。ちなみに、ホープの好みはマガモの丸焼で、懇意の猟師からたまにいただいている。
「いっぱい買ったら氷冷蔵庫ですか?」
「そうです。明日は余った肉を燻製にしてしまいましょう。そうすれば常温でも長持します。旨味も増しますし、ワインにも合います。……ああ、アンネはまだお酒が飲めませんね。大人になったら楽しめるといいですね」
食事を楽しむのと酒を楽しむのは、また別の感覚である。朝食の時間、ミスリルは姉妹にワインを勧めてみたのだが、飲めたのはフローレンスだけで、アンネは顔を顰めてしまった。
「では、アンネ。あの店で海老を十六匹買ってきてください。お金はこれです」
ミスリルは財布である革袋の紐を緩め、六ペンス銀貨と数枚の硬貨をアンネに渡した。
「お釣りは忘れずに受け取ってくださいね。それと、樽の底へ氷を敷いてもらい、海老を入れたら上からもかけてもらってください」
アンネが持つ樽は魚介類用である。オムニバスで帰宅すると約二十分はかかる。気温は低いものの、新鮮さは保った方が良い。
「はい」
「氷の量は聞かれたら、一ペンス分だけと言ってくださいね」
ロンドンで使用される主な通貨はポンド金貨(二十シリング分)、シリング銀貨(十二ペンス分)、ペニー銅貨(複数形でペンス)、ファージング銅貨(四枚で一ペニー分)だ。
この他には、半ペンス銅貨、三ペンス銀貨、六ペンス銀貨、フロリン銀貨(二シリング分)、クラウン銀貨(五シリング分)、半クラウン銀貨、一ゾウリン金貨(一ポンド分)、半ゾウリン金貨、一ギニー金貨(一ポンド一シリング分)がある。
物価は年ごとに多少の上下はするも、六ペンスもあれば海老二十匹は余裕で買える。値段の掲示が義務付けられているので、詐欺にかかる心配も少ない。ミスリルが指差したのは、初老の男性が歳に似合わない大声を出す店で、いつも贔屓している店である。
「それと、他の物を勧められてもきちんと断ること。商人に甘い顔を見せたら、獲物にされてしまいますよ」
「は、はい!」
これから戦場にでも向かうような軍人の面持ちでアンネが一件の露店へと歩み出した。家事の経験は豊富なようだが、買い物は滅多に任されたことがないそうだ。ちょっと離れた位置で見守るミスリルは、幼女へと覚えさせる仕事を細かくリストアップしていく。一人でオムニバスに乗って買い物できるようになれば、大助かりだ。近くのアーケード街で買うよりも、やはり魚市場で新鮮な食材を買うに限る。
逆に、肉を買うのなら、多少の値は張っても専門の店で買うべきだ。近年、ロンドンでは食品の偽装が問題視されている。
「買ってきましたー!」
程なくして、アンネが両手で樽をしっかりと持って帰ってくる。樽の中を覗くと、きちんと海老が詰められ、氷がかけられていた。
「おお、良くできましたね。店長からはなにか言われましたか?」
「はい。見ない顔だねって言われたので、メイザース家で働くことになった女中のアンネですと答えました。他のお魚も勧められたけど、ちゃんと断りました」
まるで、初めて獲物を捕まえた犬のようなアンネだった。ミスリスはお釣りを受け取るのを忘れ、暫し心を奪われる。
「……買い物とは、良い物ですね」
幼女とはそれだけで可愛いものだ。ミスリルは誤魔化すように咳払いする。幼い女の子とは、どうしてこうも可愛いのだろうか。一挙一動が非常に愛らしい。娘ができたら、こんな気持ちになるのだろうかと女はあるかもしれない未来を想った。
「で、では、ちょっとだけ市場を見学しましょうか。さ、ついてきてください」
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