ヒロインの描写①


 志導凪(しどう・なぎ)は、あまりにも教室の空気が重いものだから今なら比重の関係で宙に浮けるのではないかと本気で考えた。さながら、ヘリウムガスの風船の如く。全力全速全開でこの場から逃げ出したかった。だというのに、三ヶ月以上も同じ時間を共有したクラスメイト達は〝その二人〟以外、全員が等しく同じ視線を彼に向けるのだ。つまりは『お前は絶対に逃げるんじゃねえぞ』と。まだ高校一年生だというのに、少年の肩に圧し掛かったプレッシャーはあまりにも重い。これじゃあ結局飛べないか。――さあ、現実逃避はそろそろ止めよう。目の前の問題は現在進行形で継続中なのだから。

凪は己の頭上でいがみ合っている二人を眺めつつ、深い嘆息を零した。水と油、あるいは犬と猿。どうにも、二人は毎日のように喧嘩する。それも必ず、こちらを巻き込むような形で。いい加減に止めて欲しい。たまにはゆっくりと弁当を食べたいものだ。

「……なあ、敬子にセシール。そろそろ、静かにして欲しいんだけどな。昼休み、終わっちまうぞ」

 言った途端、二人がこちらに顔を向けた。凪は息を飲む。竜と虎に睨まれた鼠の気分だった。敬子とセシールの鋭き眼光に言葉が出ない。陸に上がった魚のように口をパクパクさせる彼へ、乙女二人がお互いの主張を堂々と告げるのだ。

「口を挟まないでくれるかしら、凪。今、この大馬鹿に常識ってモンを教えてあげてるの」

 鈴が鳴るようなソプラノボイスの持ち主は藤咲敬子(ふじさき・けいこ)。百五十一センチの低身長に不釣り合いな、豊かに膨らんだ胸の持ち主。きつそうに制服を内側から押し上げる、過激に素敵な刺激。スカートから覗く肉付きの良い太股。ニーソックスで強調される色気。ツーサイドアップの髪に飾られた幼き顔付きは、可憐さと艶やかさの絶妙な均衡を貫いている。瞳はやや切れ長で、堅固な意志が強調されていた。その少女、フルカスタムされたマグナムリボルバーの如く。つまりは、手に収まりきらない魅力の盛り沢山。

「あら、人の愛する夫を横取りするのが常識だなんて、お猿さんの常識とは物騒ですこと」

 ハスキーかかったアルトボイスの所有者はセシール・オール・シェール。フランス生まれの正真正銘な御嬢様。百七十センチの高身長に見合うすらりと伸びた手足。慎ましくも自己主張を崩さない胸元。一つの美として完成された肢体。肩までかかる髪は緩やかなウェーブがかかっている。それはまるで、金色の太陽を映す晴れ日の海か。ぱっちりと開いた瞳は優雅さと気品さの象徴。豊潤な美しさが存分に振るわれた存在。その魅力、宝石に飾られた王の剣の如く。つまりは、絶対的な矜持を担う生粋の女王。

「なんですって。あんたこそ、私と凪の仲にしゃしゃり出てくるんじゃないわよ。泥棒猫はそっちでしょうが。お貴族様が泥棒なんて、シェール家も堕ちたものね」

 凪は呼吸どころか、危うく心臓を止めかけた。セシールは常に余裕を絶やさないお淑やかな少女だが、家名を馬鹿にされるのに黙ってはいない。その行い。竜の逆鱗を鑢で削るようなものだった。二人が再び、睨み合う。直接目を合わせていないこちらの喉がカラカラに干上がるほどの殺意が少女と少女の視線間で衝突し、激突し、爆発する。

「……私だけならいざ知らず、我が家名まで侮辱されるのは業腹ですわね。その顔、涙と鼻水でグシャグシャに歪めてあげましょうか?」

「上等じゃないの。その憎ったらしい澄ました面を絶望と後悔で染めてあげるわ。泣いて媚びても止めない。徹底的に痛めつけてあげる」

 一触即発の雰囲気。凪は喉を何とか動かすために震える手で珈琲牛乳を飲んだ。きっと、これが泥水だったとしても気付けなかっただろう。とうに味覚はギブアップしていたのだから。舌どころか、心臓の鼓動は不規則だし、背中にはベッタリと気持ち悪い汗が滲んでいる。おかしい。去年から各教室にはクーラーが完備され、夏日でも心地良い冷風が提供されているというのに。

「あの二人って、どうして毎度毎度喧嘩するんだろうねー」

「あれでしょ。凪君が優柔不断な態度のまま生温い関係続けようとするから」

「まあまあ。私達に実害は無いわけだし。〝避雷針君〟には頑張って貰おうよ」

「羨ましいんだが羨ましくないんだが微妙だな。少なくとも胃に穴が開きそうだぜ」

 クラスメイトが好き勝手言いつつ、食事を続行する。昼休みは本来なら午後への英気を養う時間だ。胃をキリキリと痛めているのは凪だけである。弁当は半分どころか三分の一も進んでいない。

「たまには、ゆっくりと弁当が食べたいな」

 その背中に漂う哀愁に、一部のクラスメイトは『不憫な子』と涙を目尻に滲ませつつ、やはり絶対に〝あの三人〟には近付かないようにと距離を置いていたのだった。

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