飯を食う描写④
生命の残滓さえ許されないと肉が裂かれ、焼かれる。悲鳴の代わりに熱せられた脂が弾け、鼓膜を揺らす。朦々とした熱を顔に感じ、暦は赤ワインを軽く口に含んだ。肉、とくにシンプルな料理に赤ワインは良く合う。いつもは、洒落た物は好かないとビールを飲む彼も、今だけはワイングラスを傾けていた。ここは、ステーキ専門店の老舗・ウエマツの店内。それも、目の前の埋め込み式鉄板で直接焼くのが眺められるカウンター席だった。彼としては熱さを避けられるテーブル席を望んだ。そうはならなかったのは、隣の美縁が頑としてカウンター席を譲らなかったからだ。
「暦。見てください。脂がバチバチいっていますよ。凄い音ですね。びっくりです」
無表情ながら、興味深そうに肉が焼かれる様を眺める美縁。彼女と暦の為に腕を振るうのはコック帽を被った店長だ。七十の坂を越えてもなお現役で、若い頃はフランスで料理修業も行っていたらしい。狭くも色々な意味で温かみのある店は、いつも盛況だった。最近では息子や孫夫婦にも手伝わせているらしい。分かる者には分かる名店という言葉が良く似合っていた。
クラシックな喫茶店を連想させる店内のレイアウトは妻が考えたらしい。肉を焼く最中、唾が飛べば首を切るとまで豪語する老年の騎士は無言のまま、頬を緩めていた。どうやら、いつも男一人で訪れる暦が美縁を連れてきたのが気になるらしい。あるいは、少女があまりにも楽しげに肉が焼かれる様を見ているのが面白いのか。
注目されるのが苦手な暦は居心地悪そうにワインへ逃げる。ちなみに、暦の分のステーキを焼いているのは店主の息子だった。こちらは将来的に店を継がせるとかなんとか、と前に聞いたことを思い出す。アットホームが売りの一つらしい。
「暦。そういえば私、このトゲトゲを使えません。あと、こっちのギザギザも」
「フォークとナイフな。つーか、使えねーのかよ。……すみません。箸とかないですか?」
暦が皿を片づけていた騎士の妻に声をかけると、すんなり『ああ、ありますよ』と返された。助かったと胸を撫で下ろす。ここまできて一々、こっちが食べさせるのは流石に面倒だ。
「暦。肉がどんどん切られていきます。テレビで見たサーロインと違いますよ」
「馬鹿。あれはお前が箸だから食べ易いように切ってくれてんだ。もうちょっと落ち着け」
声量は多くなく、けっして五月蠅いわけではない。ただ、口数が妙に多かった。それだけ、楽しみというわけだろうか。――ならば、許すべきなのだろうか。
流石、鉄板か。肉は短時間で焼けてしまう。皿の上に乗せられた和牛のサーロインはこんがりと焼かれ、まだ脂が弾けていた。一緒に焼かれた人参グラッセの赤とブロッコリーの緑も美しい。ライスの大盛りとサラダもセットで、ボリュームは申し分無しだ。補足すると、暦が成人男性でも満足な二百グラムで、美縁が店主も驚いた二百八十グラムである。少女の皿に乗せられたサイコロ風サーロインは、なかなか痛快な光景である。
ソースはいつもの和風ガーリック醤油を選んだ。これが肉の脂と良く合う。
「では、いただきましょうか」
美縁がさっそく箸を伸ばす。皿も鉄板で、食べている最中に冷める心配は無い。ふうふうと小さな唇を尖らせて息を吹きかけ、一口。
ぴんと美縁が背筋を伸ばした。ピョコピョコとツーテールがメトロノームのように揺れ動く。もぐもぐと咀嚼し、何かを確認するようにコクコクと首を縦に振るのだ。暦は肉へ、御猪口のような器に入った茶褐色のソースを注いだ体勢のまま、視線だけを硬直させてしまう。
「んぐ。――大変美味でしょう。焼けた肉とは、ここまで美味しいのですね。暦、これは美味しいです。この汁が良い感じに舌を刺激します。どうにも米が欲しくなりますね。これはもう箸が止まりません」
有言実行とばかりに美縁がパクパクと食べ進める。その様子は見ていて小気味良い。暦もステーキをナイフとフォークで切り分け、豪快に一口。厚めだというのに、噛むのが全く苦にならない。それでいて、肉本来のジューシーな食感が顎へ伝わるのが楽しい。サーロイン特有の旨味が口一杯に広がり、それでいて醤油ベースのソースが余計な〝くどさ〟を残さず、ガーリックの刺激が食欲をさらに増進させる。ご飯は当然、これが赤ワインに合わないはずがない。冷やされた赤ワインの甘さと熱々の肉。ほぼ最強の布陣だった。焼き鳥と生ビールのコンビと常に上位を争っている。
「それにしても、お前は随分と食べるんだな。あれか、育ち盛りなのか?」
皮肉のつもりで言ってみると、美縁は口一杯に肉を頬張っている最中だった。リスやハムスターだって、もうちょっとは上品に食べるだろう。らしいといえばらしい。ラーメン屋でも麺で口をパンパンにしていたし。ステーキも所詮、焼いた肉なのだから原始的に食べるのが、ある意味で正解なのかもしれない。
「んぐんぐ。育ち盛りかどうか定かではありませんが、お腹が空きます。すっごく」
「そうかそうか。なら、一杯食べろ。身体細いから肉付けろ。じゃないと折れそうだ」
「沢山食べるのはいいことです。ところで、暦。食べたらどこに行きますか? 遊びますか?」
どこかに行くのか? ではなく、どこへ行くのか? 遊ぶ前提の言葉に、暦はやれやれと思いつつも、無碍には出来なかった。
「とりあえず、人が多く集まる場所は駄目だな。……あれ、それだとどこにも行けないな」
「私はどこでも構いませんよ。――そうですね。暦と一緒ならどこでも構いませんから」
赤ワインを口に含んでいた暦は、危うく咳き込み掛ける。美縁は何気なく言ったつもりでも、彼にとっては大事だったからだ。また、思い出してしまうからだ。それでも、曖昧に笑うだけで何も言えない。喉の奥が妙に痛い。
「暦、どうかしましたか?」
「……いや、なんでもないよ」
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