第2話 智美さん、食いすぎ。
「よう」
「キャアアアアアアアアアアア! 出た!」
「出たのはお前だろ」
男と目が合った。
智美がカレンダーをめくると、すぐ目の前に男の顔があって、不機嫌そうに穴からのぞき込んでいた。
「お前さ。腹減ってない?」
「え?」
「実はさ。ちょっと作りすぎちまったんだ、昼飯。捨てるのも、もったいないし……俺、あんま食わねーからさ。ま、引越しそばの代わりってわけで」
「くれるの?」
「……ああ」
「くれるの?」
「だから、そう言ってんだろが」
大事なことなので、二回聞いてみた。
「ぜひ! ぜひ! この哀れな子羊に救いの手を!」
「えらくテンションたけーな、何だお前。軽く引くぞ。てか、お前に手ー差し出したら、そのまま手首ごと食われそうだ」
智美はお預けをくらった犬のように、男を見ていた。この男の指摘は正しいと言えば正しいが、正確には八十点である。
智美は手首だけでなく、全てを食らい尽くすのだから。
「ほれ」
「ありがとー! このご恩は一生忘れません!」
といっても、食後のお昼寝で忘れてしまうだろう。
智美は穴の向こうからやってきたカルボナーラを受け取ると、フォークを装備して、襲いかかった。
銀色の閃光が皿の上を行き交い、智美によって、一瞬で殲滅されてしまう。その時間、わずか五秒。
いっそ、学生など辞めて、フードファイターを目指したほうがよいのではないか。
「おいふぃー! 卵のコクと、チーズのまろやかさと、ベーコンのジューシーさが、最高!」
「そっか。そりゃよかった。ほれ、ティッシュ。口の回り汚れてるぞ」
「いーのいーの!」
穴の向こうからやってくるティッシュを智美は押し戻すと、ジャージの袖で豪快に口をぬぐった。ワイルドである。そして、ゲフッと豪快にげっぷをした。もはやおっさんである。二十歳のうら若き乙女は、どこにもいない。
「てめえ。ちょっとは恥じらいとかねーのかよ」
「え? ハジライ? 何それ、おいしいの?」
「いや、なんでもねー。忘れてくれ」
男は大きな溜め息をついた。
「んー、ごちそう様! ねえ。これってどこのメーカーなの!? こんなにおいしい冷凍パスタ。あたし、初めて。よかったら売ってるスーパー教えてよ。そこの店員さんと仲良くなって、九割くらい値切らせるから」
「売ってねえよ」
「へ?」
「俺が作ったんだ」
「へ? すっごーい! あんたの家、冷凍パスタの工場なんだ!?」
「すごい解釈だな。てか、見えるだろ。この狭い部屋のどこに、生産ラインが並んでるんだ。手作りって意味だよ。俺のな」
男は鼻で笑うと、少し右に寄って智美に部屋を見せた。
そこには、物なんてほとんどなく、ダンボールの箱が数個転がっているだけだった。
「え? あんた、料理できるの?」
「できるに決まってんだろーが」
「うそ!? あたしなんて……料理といったら、せいぜいカップラーメンと目玉焼きくらいなのに!」
「それ、料理じゃねーだろ」
「あ! 今バカにした!? カレーだって作れるんだから! ……レトルトだけど。親子どんぶりも、牛丼も……レトルトだけど」
ちなみに智美の料理の腕は壊滅的である。レシピなんて物はまず見たりしない。適当に食材をブチこんで、好みの調味料をわんさか入れて、魔女の秘薬みたいなのが出来上がる。それは料理というより、もはや魔術の域であった。
「はあ。引っ越してきて早々……隣がコレかよ。しかも、初日に穴開けちまって……あーあ」
男はまた一段と深く溜め息をつくと、改めて智美を見た。そして、急に右手を穴から差し出してきた。
「な、なによ!? お金!? 払わないわよ! だって、もう食べちゃったんだもん!」
「ちげーよ。握手。俺、今日引っ越してきたの」
「え? あれ、そう、なの? あたし、ほとんど家には寝に帰ってるようなもんだから、あんまり隣近所の付き合い、ないんだよね……えへへ」
「あ、そう。俺、姫宮静。……あんたは?」
「静ちゃん!? へー。ほー。はー? 今度あたしがのぞいたらさ、智美さんのエッチ! とか言われちゃう?」
「……言わねーけど? じゃ、よろしくね、智美ちゃん」
その時、悲鳴が起こった。聞く者すべてを戦慄させる、事件の予感が。
「何、お前まだ食い足りないの? おかわりなんて、ないよ」
「ち、違うわよ! 今の……あたしじゃない」
「ん?」
そう……今の悲鳴は智美のお腹からではない。
「たぶん、上の階よ。もしかして、何かあったのかな?」
智美のセリフが終わる前に、男は穴の前からいなくなっていた。
「ちょっと!?」
智美も慌てて動き出した。焼酎の瓶を蹴り飛ばし、中身が半分残っているビールの缶を床にブチまけて外を目指す。
智美は酒豪である。松本家の遺伝なのか、一家は全員そろって酒が強い。飲み放題の店を廃業間際まで追い込めるほどに。これに食べ放題を追加すれば、松本家の前に敵はいない。
「うわあ!? もったいない! 液体に三秒ルールって通用するの!? もういいや。後で片付けよ!」
サンダルを足に引っ掛けると、ドアから飛び出し智美は出動する。
智美が入居している清凛荘は、二階建てで智美以外の住人は全員男性だ。大学生から外国人まで、様々な種類の人間がいる。
二階に行ったことがない智美は、初めて清凛荘の階段に足を乗せた。途端に世界の終末を知らせるような悲鳴が階段から発せられ、思わず足を止める。
「ちょっと! あんた失礼な階段ね! もうちょっと気の利いた軋み方しなさいよ! まるであたしが乗ったら、壊れるみたいじゃない!」
というか、誰が乗ってもこのような音が出るのである。
「ちょっとお、この階段、マジ大丈夫なの?」
おそるおそる階段を移動する智美。突然足場が崩れ、二階ではなく天国へ昇ってしまうのではないかと、冷や汗をかきながらやっとの思いで昇りきった。といっても、二階から落ちたぐらいで、生命力の強い智美が天国に昇ることはないだろうが。
「死ぬかと思った……」
そして、二階の開いているドアを見つけると、そこに入ってみる。
「おい、ちょっとお前。これ、どういうことだよ! こんなことになるだなんて、僕、聞いてないぞ!」
「お、落ち着いてくだされ! 拙者も被害者なのでござる!」
部屋の中では、若いニ人の男が何やらもめていた。普通……といえば普通であるが、少し変わった普通のニ人である。いわゆる、アキバ系な方々だ。ニ人とも汗をぐっしょりとかいて、アニメのキャラクターがプリントされたTシャツを着ている。オタクの鑑のような男達だった。
「だから、お前に預けるのが嫌だったんだ! どうしてくれるんだよ!」
「これは、決して拙者のせいでは……悪いのは、すべて泥棒でござる! 拙者の部屋をこんなに荒らした、泥棒の!」
智美は部屋を見渡してみた。部屋の広さは智美の部屋と同じ四畳半。
「な~んだ、あたしのとこと一緒じゃん」
床にはゴミ箱がひっくり返され、食べかけのカップラーメンやポテトチップスが散乱している。本棚に収まっていたであろう書籍類は、雪崩が起こったように崩れていた。タンスの引き出しも全て外され、中の衣服が放り出されている。
そう、この部屋は智美の部屋と一緒なのだ。間取りだけでなく、部屋の状況も。
「な~に騒いでんだろ。あたしてっきり、人でも死んだのかと思った」
「んな物騒なことが、入居初日にそうそうあってたまるか」
ふと、智美の頭上から声がした。声の発生源を突き止めると、それは目の前の男だった。
アキバ系男子ニ名とは明らかに空気が違う。鋭い切れ長の瞳と、百八十センチ以上はある背。服装も、タンクトップにジーパンで、髪色は眩いほどの金。体のたくましさもまたすごい。ただ、それはボディービルダーとは違い、細くて適度に筋肉質。
智美は一瞬、雷に打たれた。
イケメンビームどころの話ではない。イケメンビッグバンだった。
智美は計り知れないほどの衝撃を受けた。
「あ、ああああああ。えと、えと。あたし松本智美ハタチの女子大生です好きな物はイカの塩辛とするめと焼き鳥とレバ刺しとプロレスと――」
「知ってるよ。智美ちゃんでしょ? ほら、俺だよ。隣に越してきた、姫宮静」
イケメンは、壁の穴からカルボナーラを智美に与えた姫宮静だった。
「げ、静ちゃん!?」
「ちゃん付けやめろ、気持ち悪い」
静は顔をしかめると、智美から目を逸らした。
「な、なあ? あんたらも、聞いてくれよ! こいつ、こいつ、僕が必死にお金を工面して買った、大事な大事なフィギュアを……盗まれやがったんだ!」
静に心奪われていた智美だったが、男の一人に腕をつかまれて何やら叫ばれた。
「もー。お人形とか、どうでもいいじゃない? それより、静ちゃん。アルゼンチン・バックブリーカーに興味ない? オクラホマ・スタンピードは? インディアン・デスロックは? かけてあげようか?」
「興味ない」
智美はプロレスマニアだ。初めて付き合った彼氏を相手に色々技を試して、三日で別れを告げられた。以来、智美が異性に求めるのは頑丈さと、料理のうまさ。そして、イケメンであることに変わった。
「ひゃ、百万もするフィギュアなんだぞ!? あんたも何とか言ってくれよ!」
「うげ!? 百万!? それ、詳しく聞かせてよ」
智美の意識は一気に百万フィギュアに傾いた。見つければ、一割もらえるんじゃないかと期待したのだ。こうなったら、静のことは一時休戦だ。
そして、ニ人から事情を聞くことになった。
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