智美、オーバードライブ!

岡村 としあき

第1話 智美さん、やりすぎ。

「もう死にたあい……」


 アパートの自室で、本日三度目の後悔を松本智美は呟いた。


 木造築三十年のボロ屋の隙間から、怨念にも似た若い女のすすり泣きが聞こえてくる。それは、残暑の蒸し暑い昼下がりを行き来する人々に、無料で肌寒い恐怖感を提供していた。ある意味エコだ。節電対策にも一役買っている。


 智美が後悔している理由はただ一つ。


 十月を目前にした大学生が唯一警戒するイベント、前期試験の結果である。今年は三年目とあって、来年の就職活動に響かないよう、全科目Aで単位を取得するつもりだったのだが……。


「やばいよー、やばいよー、こいつはやばいですよー」


 智美はベッドの上でうつ伏せに倒れこみ、自分以外のすべてをシャットアウトするため、頭の上に枕を乗せて目を閉じた。肩までキレイに切りそろえられた黒のセミロングヘアと、色白の首筋の隙間から、後悔の嵐が吹き荒れる。


 智美は美人である。しかし、本人は服装に無頓着で、その上男勝りな性格だ。小学生の頃は近所の男の子を数人引き連れ、イタズラ三昧だった。異性からは、話しかけやすい女友達、という認識から、上にランクアップされることはない。


 智美は強い。空手五段、少林寺拳法六段、柔道三段になったのは、高校時代に格闘技マニアだった憧れの先輩を、強さで魅せると決めたからであった。しかし、告白現場でカツアゲしていた校内の不良グループを血祭りに上げて、それを目撃した憧れの先輩は、財布ごと智美に押し付け、命乞いしてきた。呼びつけられた理由を、誘拐目的の強盗と勘違いされたらしい。その日、智美に出来たのは恋人ではなく、八人の舎弟であった。


「誰か代わりにバイトしてくれたり、授業出てくれないかなー。これじゃ留年しちゃいそー。そんで、正社員なれなくて、派遣社員にでもなって、いつの間にかアラサーかあ」


 今回の試験はいつもに輪をかけて、酷い結果だった。ちゃんと授業に出ていれば、それなりの点数を収められる智美であったが、バイトをしなければ生活を維持できない。親の反対を押し切って都内の大学を選び、あまつさえ、一人暮らしをしたいと言い出したものだから、父親と猛喧嘩をすることになってしまった。そのため、学費以外のその他は自分で稼げと言われてしまい、図らずも貧乏苦学生にジョブチェンジしてしまったのだ。


『うるせえぞ! こらあ!』


 智美の鳴き声にとうとう隣の部屋の住人がシビレを切らし、部屋の壁が大きく揺れた。


「うるさいのはそっちよ! こらあ!!」


 智美は果敢にも壁に向かって蹴り返す。


 智美はケンカっ早い。三姉妹の次女で真ん中の子だ。姉に毎日いじめられ、妹に色々横取りされながら生きてきた。


 その為、自己主張と気の強さだけは誰にも負けない。姉と妹にしわくちゃにされながらも、激動の少女時代を生き抜いてきた。過分に誇張表現ではあるが。


『そっちがうるせえんだよ、こらこらあ!』


 またしても部屋が大きく揺れる。隣の住人も蹴り返してきたらしい。


「うるさいのは絶対にそっちよ! こらこらこらあ!!」


 智美は手加減を知らない。再度壁に向って蹴りを入れる。彼女が空手で組み手をしたら、必ずやりすぎる。そのため通っていた空手道場では孤高の狼……というか、完全に畏怖の対象として見られ、頼んでもいないのに稽古が終わると、門下生一同は智美にジュースを差し出し、マッサージが始まる。


 木造築三十年の壁は、智美キックを数発受け、ミシミシと悲鳴を上げていた。智美は改造人間ではないが、怪人くらいなら一撃で倒せそうな蹴りを放つのだ。


 壁の向こうの相手は、智美の蹴りの勢いと気迫に圧され、それ以上蹴り返してくることはなかった。


 智美は遠慮を知らない。駅前でティッシュを配っていたら最低五回はもらう。微妙に髪型を変えて変装したつもりでいるが、配る相手は五回目に来た智美に、遠慮なく視線のナイフを投げつける。もちろん、そんなモノに怯えて戦意を喪失する智美ではない。初志貫徹する漢なのだ。隙あらば六度目も狙ってみせる。最終的にティッシュを配るバイトはカゴごと智美に差し出すと、涙を流し平伏する。


「こらこらこらこらあ!!」


 智美は調子に乗りやすい。蹴りを入れる内に楽しくなってきて、日頃のウサ晴らしにと、だんだんと蹴る威力を上昇させていった。


 だから、その結果は当然の帰結であった。


「おりゃー!」


 その掛け声と同時に、智美の足は壁を貫き、何か固いモノに触れた。


「いってええ……何だよ、この足」


 智美は熱しやすく、冷めやすい。すぐに状況を把握し、現状を理解した。


 ああ……やっちまった。である。


「女の足じゃねーか。ったく、何なんだよ、こいつ。壁に穴空けるとか、マジありえねー。プロレスラーか女力士かなんかか?」


 壁を突き抜けた智美の足が触れているのは、男性の腹のようだった。けっこう固い。足裏の感触からして、六つに分かれている。まるで洗濯板のようだ。


 一瞬、洗濯する時はコインランドリーに行かず、コレで代用できるんじゃないかと閃いたが、見ず知らずの男の腹に、自分の衣服をこすり付けるなど、乙女のやることではないと恥じた。高校時代の穴が開いたジャージを着て、首筋をボリボリかきながら。


 それにしても見事な腹筋である。相手は相当鍛えているようだった。しかも、声から察するに、若い男性のようだ。


 智美は一気に壁から足を引き抜いた。無残に空いた直径五十センチの穴の向こうには、鋭いニつの瞳があった。顔ははっきりと見えないが、イケメンビームが穴から発射され、智美は焼き尽くされそうになる。


「よう、怪力女」


 少し高めのアイドルのような声。しかし、発せられたセリフは、智美のケンカっ早い心に火を点けた。


「誰が怪力女よ!」


 智美が穴に向かって一歩前に出ると、タイミングよく地震が起きた。かなりのバッドタイミングである。


「おーこええ。歩くだけで地震勃発かよ。なんつー女だ」


「あたしのせいじゃないでしょ! ていうか、こっち見ないでよ! 女の子の部屋のぞくなんて、ヘンタイ! 最低! 死ね! カス!」


「おいおいおいおい。俺が悪者かよ。ていうか、この穴の修理費お前が払えよ。お前が空けたんだからな」


「ちょっと! あんたも蹴ったでしょ!? 仲良くニ人で大家さんに謝りましょうよ。あんたは土下座よ」


「はあああ? 何で俺が土下座しなきゃならねーんだ! お前も謝れよ! まったく、知るか、そんなモン。とりあえず、あんたに任せるわ。俺はこれから飯なの。食事。お昼ごはん。ランチタイム。おわかり?」


 その時、悲鳴が起こった。聞く者すべてを戦慄させる、事件の予感が……智美のお腹から。


「あ……やだ。あ、ああんたが、お昼ご飯の話なんかするから!」


 現在、お昼のニ時を回ったところである。後悔と絶望に忙しかった智美は、すっかりお昼ご飯を食べ損ねていた。


「ふう。じゃあな。とりあえず、カレンダーでもして、穴塞いでおくからよ。……のぞくなよ?」


 男は大きな溜め息をつくと、セリフ通りカレンダーで智美を封印した。正しい選択である。


「ちょっと! 誰がのぞくのよ! のぞくのはあんたのほうでしょ! むしろ、のぞきなさいよ! ああ、腹が立つ! 絶対にのぞかせてやるんだから! そのためにはまず、腹ごしらえね! 腹が減っては戦はできぬと言うし」


 智美は頭の切り替えが早い。ダイエット中で、しかも金欠の時、焼肉弁当と唐揚げ弁当で迷ったら、両方食べる。財布と体重計が頭の中を横切ろうとも、タレの匂いを嗅いで、油の揚がる音を聞けば、ダイエット中止を脳内で閣議決定して、すぐさまマニフェストを実行する。


 ということで、智美は新しい目標を見つけると、さっきまで後悔と絶望をしていたことも忘れて、お昼ご飯を食べようと決心した。


「今日はどうしよっかなー。パスタにしよっかなー。ラーメンにしよっかなー。そばにしよっかなー。うーん。うーん。うーん……そうだ! 冷凍パスタにしよう! カルボナーラ大好き! 愛してる!」


 智美は、散らかり放題のお部屋(汚部屋ともいう)のど真ん中で、愛を叫んだ。


 そして、ゴミや大学の教科書や、三枚セットで五百円の下着を蹴散らしながら、冷蔵庫の前まで突き進む。今の智美を止める術は誰にもない。まるで怪獣が東京を襲撃するかのように、冷蔵庫に襲いかかった。


「ふふふ。捕まえた! もう逃げられないんだから!」


 例え冷蔵庫に足が生えたとしても、智美の魔の手から逃げ出すことは不可能だろう。


 冷凍庫を開けて、目を皿にして、智美は索敵モードへ移行した。


「あれれ? ないよ。冷凍パスタ。どこいったんだろ。あれえ~。ちょっとお! いくらあたしが美人だからって、照れて隠れちゃうことないでしょ~。んもう」


 と、そこにきてようやく思い出す。昨日すでに食べてしまっていたことに。


「あちゃあ~。昨日のあたしのバカ! 何で今日のあたしのために取っておかないのっ! 信じられない! あたしが昨日のあたしだったら、迷わず今日のあたしに、人類の未来とともに託すわね! 昨日のあたしはなんて愚かなのかしら!」


 結局は自分のことなのだが、お腹が減った智美は、都合のいいようにしか考えることができないようだ。


「あれ? なんだろ。いい匂い……うう。お腹空いたぁ!」


 智美の部屋にほんわかいい香りが立ち込めた。瞳を閉じ、五感を全て嗅覚に集中させる。


 智美は鼻が利く。家族が自分に黙っておいしいものを食べてしまわないように、少女時代から訓練した賜物なのだ。これにより、小学校四年生の時、妹がおはぎを独り占めしようとしたのを阻止したし、中学一年生の時、母が天井裏でカステラパーティーを催していたのを、察知することができた。


「むむ!? チーズとにんにくと、卵とベーコンの香り……。見えた! カルボナーラ!!」


 智美の大好物の、カルボナーラの匂いだったようだ。


「う~ん。でも、本当おいしそう。一体どこから……あ!」


 匂いの発生源をたどってみれば、それは智美を封印していたカレンダーの先だった。つまり、隣の男の部屋から、ということになる。


「うう。悔しい! カルボナーラ食べたいよー! どうして世の中はこうも不公平なの!?」


 不公平も何も、昨日自分が食べてしまったからだ。


 食欲が頭の中を支配し、本能が智美を突き動かす。いつしか、智美はカレンダーの前に立っていた。


「はあはあはあ。……禁断症状だわ! は、はやく。何か、食べ、ないと」


 いけない。そう頭の中でわかっていても、ついついカレンダーに手が伸びた。


 そして、おそるおそるカレンダーをのけ、のぞき込んでみると――。

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