5 感謝(1)
鹿の階から研究所のある馬の階を通り越し、はるばるクジラの階まで来てやったというのに。
肩を落としてガクッと頭も垂れる。
この辺りは住宅街で人通りは少ないとはいえ、往来で人目も憚らず恋人に抱きついている親友に気乗りしない足取りで歩み寄る。
「お二人さん、感動の再会のところ邪魔して悪いんだけど」
ぎくっと驚き振り返ると、呆れた表情のレナードソンが立っていた。脇にはソラを入れた籐のバスケットを抱えている。
二人はゆっくりと気まずそうに立ち上がり、アルトがスカートについた砂埃をぱたぱた払う。
レナードソンはアルトに向かって、
「おかえり、アルトちゃん」
にっと歯を見せて笑う。
見られて恥ずかしいのだろう、アルトは赤い顔で照れ笑いした。
レナードソン、と声をかけられ見ると、セルシオがいつになく真剣な顔をしている。
「ナナを喪ってから今まで、たくさんの迷惑をかけてすまない。もう後ろを向いたり何もかも諦めたり、そんなことは二度と繰り返さない。落ち込んだときに助けてくれたことも、檄を入れてくれたことも、本当に感謝している」
詫びと感謝の言葉に、しかしレナードソンは珍しく冷めた表情でセルシオを見返している。
そして何事もなかったかのようにアルトに顔を向け、にっこり笑ってソラを手渡した。
「はい、預かってたソラ。それと」
言いながらセルシオに振り返ると、
「こいつ、殴っていい?」
そう問うた瞬間には右ストレートが決まっていた。
顔面にまともにくらったセルシオは尻餅をつき、痛そうに左頬を押さえる。
思いもよらない光景に、アルトは驚き目を丸くして、
「……いいよ」
「ありがとう」
言って赤く痺れた手を振る。
突然のことにセルシオが戸惑いながらレナードソンを見上げる。
「やぁっと気づいたか、このバカ! 俺が励まそうが怒ろうが全っ然反応ねーから、お前に何もできてないのかって思い込んじまっただろぉっ?」
悔しそうに半泣きで訴える。
冗談のような本気のような剣幕に、セルシオが困惑しながらごめん、と頭を下げた。
怒った表情のレナードソンが無言で手を差し出し、セルシオが逡巡して掴む。
引っ張り上げられ立ち上がったセルシオを真剣な顔で見て、それからにぱっと笑顔になった。
「分かりゃいーんだって。感謝されたくてしたんじゃねーし。お前がいねーとつまんねーってだけだからさっ」
彼らしい豹変に、セルシオの口から笑いがこぼれる。
穏やかな目でまっすぐに見て、
「ありがとう、レナードソン」
レナードソンはへへっと照れ笑いすると、大きく腕を振ってセルシオの背を思い切り叩いた。
不意打ちに驚き仰け反り、痛みに呻いてのたうつ。
「もーホンットバカこいつ。こんくらいじゃ足りねーって」
「ぼくの分もやっちゃってー」
アルトが楽しそうに火に油を注いで、レナードソンが笑顔でおうと引き受ける。
「ちょ……っ、待て、本当に……」
頰と背中の冗談抜きの痛さに、セルシオが震えながら手を上げギブアップした。
仕事へ向かうレナードソンを見送り玄関の扉を開けると、汗ばむ陽気なのにひやりとした空気が流れ出る。
「ただいまーっ」
嬉しそうに元気よく言うのでセルシオが苦笑する。冷え切っていた家の空気がじんわり温かくなる。
アルトが靴の爪先で翻り、セルシオを見てあははっと笑う。
「痛そうだねっ」
「本気で殴ったぞ、あいつ」
顔をしかめて赤くなった頰を押さえる。背中もまだジンジン痛むが、口の中は切れてそうだ。
レナードソンを焚きつけていたアルトが
「レナードソンさんは本当に優しいねっ」
と無邪気に言うので、そうだなと薄く笑う。
甘んじて受け止めよう。それだけ今まで周りに無関心に生きてきたのだから。それでもなおそばにいてくれることに感謝しよう。
傷ついても倒れても独りじゃない。手を差し伸べ、支えてくれる人がいる。
そのことに気づけたから、助けられるばかりじゃなく、いつか彼らが困ったときに助けられるようになりたい。
そう胸に刻んでいると、ふいにアルトがセルシオに寄りかかる。
目を丸くして見ると、かすかに震えているので泣いているようだ。
「……ごめん」
突き放したこと、押し倒したこと、待たせたこと。
いくら謝っても到底足りない。
片手でアルトの頭を抱えて、
「アルト……」
これから大切にするからーーー。
するとにょっとアルトの腕が伸びてきて、セルシオの頬をつねった。ぐいぐい引っ張るので何か憶えがあるぞと思っていると、アルトがぱっと顔を上げる。
「……やっと見れた。セルシオの笑った顔」
涙目で優しく笑みを浮かべる。
それは楽しいから、嬉しいからだけではない、心からの笑顔。
セルシオが微笑んで頰に手を伸ばすので、アルトの胸がドキッと跳ねる。
そしてアルトの真似をして、むにっと軽くつまんだ。
「へるひぃふぉおー」
情けない声で訴えるので、セルシオが吹き出す。
アルトもつられて笑い出した。
セルシオがきゅっとアルトを抱き締める。アルトが固まり、ひゃあああと心の中で悲鳴を上げた。
さっきもこれまでも何度か抱き締められているが、今が一番優しくアルトを包み込んでいてドキドキする。
「笑ってる間は幸せ、だな」
耳元で囁かれ、うっ、うんっ、とアルトが耳を赤くしながらうなずく。
「ーーー一緒に笑っていよう」
微笑んで、そっと優しく口づけした。
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