4 はじまりの言葉(2)

 列車の窓枠に肘を突き、ぼんやり外を眺めながら、セルシオは一昨日徹夜で何度も書き直した手紙を思い返していた。


『ーーーアルト、まずは謝りたい。突き放してごめん。

 前に「戻ってきて欲しい」と言ったときのような、何となくお前にいて欲しいのではなく、今度ははっきりと想いを伝える。


 そのために、先にナナのことを話したい。


 四年前、私はナナを喪い、それからずっと悔やんでいた。この先ずっと彼女と一緒にいて、大切にできるはずだったのにと。』


 出会ってから別れまでわずか一年半。

 別れがこんなに間近にあるなんて、付き合ってる間は思いもしなかった。


『好きな人と一緒にいる時間がいつまでも続くと思ってた。

 そうやって時間に甘えてたと気づいたのは、彼女が入院してから一ヶ月。病名を告げられ、ナナの時間が残り少ないと知ったときだ。


 足がすくんだ。もう、彼女を愛せないのだと。』


 ナナリーを大切にしていたかった。

 けれど日毎迫りくる別れの前で、セルシオは無力で。別れを待つことしかできなくて。


 愛していたい。ずっと一緒にいたい。

 死を受け入れた彼女の足枷にしかならない言葉を、唇を噛んで呑み込んだ。


『そうしてナナを愛することに二の足を踏むようになり、別れの日までただそばにいることしかできなかった。


 ナナの眠る地下室で、彼女を想う振りをして本当は贖罪していた。最期まで愛せなくてごめんと。

 自己満足にもならない、行き場のない想いをずっと抱えていた。』


 忘れないでーーー。

 セルシオが立ち直る足がかりにした言葉は、チューブに浮かぶナナリーの前で償いを募らせるものになった。


『もう何も要らない。大切なものを作りたくない、手に入れたくないと思って生きてきた。

 二度とあのときのような思いをしたくなかったから。』


 もう誰も何も失いたくない。

 それなら最初から手に入れなければいい。

 初めからなければ、胸は痛まない。


『そうやって、人を愛することを諦めた。』


 記憶、想い、時間。

 目には見えないが、全ては砂のように絶え間なく流れている。


 砂時計の砂はこの手に何も残さず、たださらさらとこぼれ落ちていった。


『空っぽだった。それでいいと思ってた。』


 三年間、何も持たず、何も求めず。抜け殻のように生きてきた。




『それなのにアルト、お前と出会った。』


 会うはずではなかったのに、唐突に出会った。


 それでも最初は絶対に好きにならないと思っていた。

 それが、いつからかそばにいて欲しいと思うようになって。


 アルトの明るさや優しさに触れ、自分、アルト、そして二人を取り巻く人たちの気持ちが重なり、空だった手にアルトへの想いが降り積もっていった。


『お前がナナと同じ魔法使いだと知ったときも、好きだと気づいたときも。また愛する人を喪う苦しみを繰り返すかもしれないと、何度も自分を制し、問いかけた。


 いつかはお前を喪う。ナナのときのような絶望にはもう耐えられないと思い、お前を突き放した。』


 セルシオを懸命に想って信じてくれたというのに、身勝手に裏切り傷つけた。


『お前が出て行って独りになってからは、どうすべきだったのか、どうすればいいのかずっと悩んだ。』


 反省して後悔して、いやでもと思い直し、また悩んで。

 二週間、頭を抱えて同じところを行ったり来たりした。


『そしてお前のことを思い出しているときに気づいた。』


 ーーー楽しかった、ね?


『この十ヶ月間、お前と一緒にいて楽しかった。

 そう気づくと、楽しかった記憶を次々と思い出したんだ。』


 笑って欲しいと言われて呆れたくせに、再び笑えるようになれて嬉しかった。


 仕事を片付けるだけだった休日が、今度は何をしよう、どこへ行こうと考えるようになった。


 早く帰り早く起きるようになったのは、アルトとの会話と手料理が楽しみだったからで。


 好きだと告げた日の花は、今までで一番綺麗に見えた。


 アルトがいるだけで、見るもの全てに光が射したように鮮やかな色がついた。


『そうやって思い出を振り返るうちに分かった。

 大切な人を喪って、謝るのも悔やむのも違う。

 本当は、一緒にいられて楽しかった、ありがとうと言うべきだったのだと。』


 ナナリーに出会えたこと、一緒にいたこと、笑い合ったこと。

 よぎるだけで胸が痛み、目をそらしていた二人の思い出が、感謝するとあふれるように思い出されて。


 そうしてようやくたどり着いた答え。


 いつか喪って悔いることのないよう、大切な人を精一杯愛そう。

 別れのときとその後に、心からありがとうと言えるように。


『そう気づいたから。

 何も持たない空っぽの自分より、大切なものを護れる人になりたい。そして幸せでいたい。』


 人を愛するための答えを見つけた。

 だからこれからは、大切な人と目一杯幸せになりたい。


 幸せでいるにはどうすればいいだろうと考えると、アルトの笑顔が浮かぶ。


 ーーー笑ってる間は幸せなんだよ。


 うん、そうだ。笑えることは幸せだ。そして幸せがまた人を笑顔にする。


『いつか思い出を振り返るとき、お前の笑顔と笑い合った記憶が一番多いと嬉しい。

 仕事に行くときも、帰ってきたときも、寝るときも起きたときも、いつもの笑顔で笑っていて欲しい。』


 流れていくのをただ眺めているだけだった、砂時計の砂。

 限りある時間の中、大切な人を愛せる時間はあとどれくらいだろう。


 この手にある大切なもの。もう流されないように。


『アルト、遅くなったけれど迎えに行く。

 そしてーーー。』




 夏の日差しにじわり汗をかき、続く階段と坂道に息が上がる。


 ようやく家が見えてくると、家の前に人影が見える。

 女性が壁に寄りかかり、目をつむって座っている。

 セルシオがほっとして頰を緩めた。


 前で足音が止まったのに気づいて目を開け、女性がゆっくりと顔を上げた。

 表情が崩れそうになるのをこらえて、セルシオが微笑む。


「……迎えに行く、と書いたんだが」


 アルトはじっと丸い目を向け、やがてほんのりと笑った。


「早く……帰りたくなって」


 久しぶりの声と笑顔に想いが一気にこみ上げて、地に膝をつけると狂おしそうにアルトを抱き寄せた。


「ーーーおかえり、アルト」


 アルトから顔は見えないが、かすかに震えている。

 そっと腕に手を添えて目を閉じ、ただいま、と答える。


「セルシオも」


 人を愛することを諦め、けれどずっと人を愛したくて悩んでたキミ。

 迷って逃げて廻り道をして、ようやくここへ。


 アルトの唇が弧を描く。


 人を愛することのできるキミに。

 そして、自分を大切にできるキミに。


「ーーーおかえり」


 優しい言葉が胸に響いて、抱き締める腕に力がこもる。

 笑みを浮かべ、かすれた声で答えた。


「ああ。ーーーただいま」




 ーーー忘れないで。


 出会いがあれば必ず別れのときが来る。それは数分後とも、数十年後ともしれない。

 分からないなら、限りある時間を愛しい想いで埋めつくそう。


 笑い合った日々も、幸せを感じた瞬間も、喪ったものも、涙を流したことも、全てかけがえのない思い出。


 そうして大切な思い出を積み重ねて、いつかの別れのときに笑って手を振れるように。


 一緒にいて楽しかったねと、言えるように。




「アルト。ーーー一緒に暮らそう」


 この街で。この場所で。

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