2 焦燥、そして決壊(1)
せわしなく研究室を歩くセルシオに、研究員のベルナーが振り返って声をかける。
「あれ? 今日は行かないんですか? 室長」
どこへ、とはあえて言わない。
機密事項のせいもあるが、それほどまでにセルシオにとってのいつもの場所だからだ。
セルシオは薄く笑って、
「ああ、いいんだ」
そう答えてすぐだというのに、会議室から研究室へ戻る途中で自然と足が地下室へ向いてしまい、苛々と舌打ちをする。
踵を返して足早に歩いていると向かいから来たスフィアとすれ違い、驚いた顔をされた。
「あいつが大丈夫と言うときは、大丈夫じゃないんだよな……」
会議室のソファで仰け反って、レナードソンがつぶやく。
その前では、アルトが辛そうな顔で座っている。
しまったな、と声は出さずに口を動かす。
上半身を起こすと、ソファに乗せた両脚の間で頭を垂れた。
まさかナナリーを忘れようとするなんて。
アルトと恋人になって、このままうまく行くと思い込んでいた。
「何て……言ってあげたらいいのかな」
小さくつぶやく声に、レナードソンが目を上げる。
アルトは悲痛な面持ちで視線を落としている。
「忘れないでって……。ナナリーさんを忘れなくていいんだよって、言ってあげたらいいのかな。でもきっと……セルシオは聞いてくれないよね」
そうだろうな、とレナードソンも思う。
あの頑固者は、とりわけ思い込んだことに関しては、人に促されて気を変える男ではない。
がりがりと頭を掻いてため息をつく。
うつむいて泣き出しそうなアルトに、眉尻を下げて優しく微笑んで、
「アルトちゃん、しばらくうちに来る? 今あいつと一緒にいるの、辛くない? うちは家族もいるし」
少しアルトが離れれば、彼女の大切さに気づいて目を覚ますかもしれない。
けれどまた
レナードソンの申し出に、アルトはふるふると首を振った。
「一緒に住み始めたのは成り行きだったけど……。でも今は、セルシオと一緒がいい」
そう力なく微笑んだ後、両手で顔を隠してしゃくり上げた。
レナードソンは大丈夫だよ、とも、元気出して、とも言えず、ただ黙って目線を落とした。
ナナリーでついた傷は、アルトにも埋められないのかーーー。
通路を行く見慣れた背を見つけ、つかつかと歩み寄り声をかける。
「セルシオ。アルトちゃんを傷つけるなと言っただろ」
レナードソンの身体の中は、溶岩が煮えたぎっているような、噴火寸前の状態だった。
セルシオは振り返ると、「傷つける?」と眉をひそめた。
「アルトを想ってナナを忘れようとしてるのに、どうしてそれが傷つけることになるんだ?」
「アルトちゃんは忘れて欲しいなんて思ってない」
セルシオがため息をつくので、レナードソンの怒気が上がる。
そんなことかと煙たそうな表情で、
「私が忘れたいんだ。アルトがどう思うかは関係ない」
忙しいんだと言って足早に立ち去る。
「関係なく……セルシオっ、話を聞けっ!」
叫ぶが無視されてしまう。
レナードソンは呆然と立ちすくんだ。
同じ顔をしている。誰も受け入れようとしなかったあの頃と。
レナードソンはくそっと悪態をついてつぶやいた。
「頑固者……っ」
帰宅し玄関の扉を開けるとアルトが待ち構えていて目を丸くする。
アルトはセルシオを睨むような目で見上げて、
「セルシオ。本当にナナリーさんを忘れるつもり?」
セルシオが一瞬「まだ言うか」とでも言いたげな顔になり、諦めた笑みを浮かべる。
「ああ。もういいんだ」
そしてアルトの頬に触れ、額に口を近づける。
アルトがびくっと身を縮ませ顔を背けるので、セルシオは何も言わずに離れてダイニングへ向かった。
アルトは唇を強く噛み、震えながらぐっと涙をこらえた。
ダイニングの椅子に座るセルシオの隣に立って、肩をわななかせる。
「忘れなくていいよ!」
しかしセルシオは顔色一つ変えない。
「いいんだ。もうナナの写真も捨てた」
平然と言って、アルトが驚き愕然とする。
もう二度と撮ることのできない、笑顔のナナリーや二人の写真をーーー。
反射的に手を振り上げる。
はっと我に返ったときには、セルシオの左頬が少し赤くなっていた。
力は弱いものの平手打ちされたというのに、セルシオは無表情でアルトを見ずにただ黙りこくっている。
アルトが震える拳を握り、うつむく。
「セルシオ……。ナナリーさんとの思い出は、そんなに辛いものだった?」
何も答えない。
アルトは声を震わせながら、
「ダメだよ……。お願い、忘れないで」
「じゃあお前は何をしにここへ来たんだ?」
強い口調で言い放って、アルトが怯えた表情になる。
セルシオと見合いをして、ゆくゆくは結婚するために来たはずなのに、過去の恋人を忘れなくていいと言う。
「そうだ。もう辛いんだ。ナナを思い出すのが」
彼女に何もできなかった記憶、荒れた記憶。
思い出すと後悔ばかりで胸が締めつけられる。
「もう、思い出したくない」
笑おうとしてるのか、それとも。
目を伏せたセルシオの口元はひくついている。
アルトが辛そうな顔を見せ、首を振ってすぐ真剣な顔で喚き立てた。
「そんなはずないっ。ナナリーさんのこと、セルシオはいつだって楽しそうに話してくれたっ。ナナリーさんは明るくて、いつも笑ってて」
啖呵を切るアルトに、セルシオがぎりっと奥歯を噛みしめる。
バンッ! とテーブルを強く叩き、アルトがビクッと身を縮ませる。
周りをうろうろしていたソラも驚き、爪音を立ててダイニングから飛び出していった。
セルシオは暗い顔でアルトを睨むと、
「……それを思い出すのが嫌だと言ってる」
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